「天寧寺 (会津若松市)」の版間の差分

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義広は、天正17年([[1589年]])の[[摺上原の戦い]]の敗北により[[米沢城|米沢]]の[[伊達政宗]]によって会津黒川を追われ、天寧寺もこの戦いで一時焼亡している{{refnest|group="注釈"|[[京都]]の[[天寧寺 (京都市)|天寧寺]]は当時の住職[[祥山曇吉]]がこの戦いで会津を追われて京都に避難した際に、本尊を安置するために仮に建てた仏堂が会津での再興後も門人に継承されたものであり、今日では[[金森重近|金森宗和]]・[[滋野井公麗]]らの墓所のあることで知られている。}}。当時の遺構として残っているのは[[本堂]]の[[礎石]]のみである。
 
会津を追われた蘆名義広は実兄・[[佐竹義宣 (右京大夫)|義宣]]を頼って[[常陸国]]に逃れ、のち、[[豊臣秀吉]]から常陸国[[江戸崎藩|江戸崎]]4万5,000石を与えられ、名を蘆名盛重と改めた。義広(盛重)は、[[関ヶ原]]ののち、[[慶長]]7年([[1602年]])に父の佐竹義重・佐竹義宣とともに秋田領に入り、名を義勝(よしかつ)と改め、[[仙北郡]][[角館]]に1万6,000石を与えられた。角館では町割りをおこない、同地に会津天寧寺の末寺として山号・寺号をそのままに城下東方の花場山の麓に[[天寧寺 (仙北市)|天寧寺]]を創建、菩提寺とした{{refnest|group="注釈"|これにより、会津、京都、出羽角館の3か所に同名の「萬松山天寧寺」が存在することとなった。}}。なお、会津は伊達政宗には与えられず、秀吉は配下の[[蒲生氏郷]]を封じた。氏郷の死後は[[上杉景勝]]を[[越後国]]より加増のうえ転封した。
 
後援者を失った天寧寺であるが、その後も周囲の人びとの尽力によって維持され、現代につづいている。