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*父・'''橋川恵順'''(1860-1920):真宗大谷派の僧侶で、社会事業や慈善活動を行った<ref name=ohsawa>[https://researchmap.jp/read0155549/published_papers/21172131 昭和前期の仏教界とタイ 藤波大園と山本快龍の視察]大澤広嗣、泰国日本人納骨堂建立八十周年記念誌(高野山真言宗タイ国開教留学僧の会編・刊)2017年11月</ref>。常葉幼稚園設立のほかに、明治26年に[[京華看病婦学校]]を創設し、看護婦養成事業を行なった。これを補佐した[[大渓専]]は恵順に倣って愛知県で看病婦学校を設立し、同校はのちに[[名古屋短期大学]]となった<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsnr/23/3/23_20000627136/_pdf/-char/en 佛教系看護婦学校による訪問看護一桜花義会看病婦学校における明治から大正期の活動を中心に]徳川早知子(滋賀医科大学) 日本看護研究学会雑誌Vol.23 No. 3 2000</ref>。
*妹・藤波和(1898-1965):1923年に『[[時事新報]]』記者で僧侶の藤波大円と結婚<ref name=ohsawa/>。
*義弟・'''藤波大円'''(1893-1945):和の夫。[[教誓寺]]の住職の子として生まれ、[[真宗京都中学校]]を1914年に卒業、真宗[[大谷大学]]の兼修科を1918年に卒業し、[[上海]]にあった[[東亜同文書院]]に学んだ<ref name=ohsawa/>。帰国後『[[時事新報]]』の政治部記者となり、1925年まで勤務<ref name=ohsawa/>。1927年に本山の命により[[朝鮮]]を視察し、『朝鮮開教五十年誌』の編集を務め、1928年より真宗大谷派宗議会議員と議長、1935年より仙台教務所長を歴任し その後高山教務所長兼高山別院輪番を務めて、別院本堂の再建に尽力した<ref name=ohsawa/>。義兄・正の急逝により、1931年からは常葉幼稚園の第三代園長となり、常葉日曜学校長と大谷常葉少年団長も兼務した<ref name=ohsawa/>。1941年に[[タイ]]を視察、帰国後、真宗大谷派の南方南支方面開教監督部長及び東本願寺広東別院の輪番に任命され、開教監督として現地で布教活動を行なっていたが、終戦直後の1945年9月、[[広東]]別院の宿舎に乱入した暴徒により殺された<ref name=ohsawa/>。「文徳院繹大園法師」と号せられた<ref name=ohsawa/>。実弟に[[フランシスコ・ザビエル#『フランシスコ・ザビエル肖像』(重要文化財)|フランシスコ・ザビエルの肖像画]]などを発見したことで知られる郷土史家で教誓寺住職の藤波大超がいる
 
== 主要な著書 ==