「植芝盛平」の版間の差分

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:阿部はこれに感動し、以後盛平について10年間合気道を学んだ。後に阿部は、「[[講道館]]柔道史上最強」と謳われた[[木村政彦]]との試合に勝利する。木村が最後に破れた相手がこの阿部である。木村は阿部に柔道の技を何度かけてもふわりふわりと受け流され、その度逆にこっぴどく投げ飛ばされ、木村は柔道に命を懸けていただけに、一時は柔道を辞めようと思うほどのショックを受けたという。
{{Quotation|私は阿部について調べるうち、不思議なところに辿り着いた。[[イギリス]]の合気道である。阿部は昭和三十一年(一九五六)、イギリスに渡っている。<br>在英合気道家ヘンリー・エリスが教えてくれた。<br>「イギリスでは、阿部先生は非常に優れた柔道家として、また、初めて合気道を持ち込んだ武道家として有名なんです」<br>しかし、阿部が合気道をやっていたという日本の史料はない。<br>「阿部先生は京都の武専を出た柔道の専門家です。いったいどこで合気道を習ったのですか?」<br>疑問をぶつけてみると、エリスは数十年前そのいきさつを阿部に直接聞いたことがあると言う。阿部は拙い英語でエリスに説明してくれた。<br>阿部が二十歳前後で、武専の学生だった頃の話だ。<br>柔道の試合のために夜汽車に乗っていた阿部の向かいの席に、髭を伸ばした老人が座っていた。<br>目が合うと、老人が言った。<br>「私は君を知っているよ」<br>「私は柔道のチャンピオンですからご存じなんでしょう」<br>阿部はあくまで慇懃に答え、礼儀として老人に名前を尋ねた。<br>「あなたの名前も教えていただけませんか」<br>「植芝盛平だ」<br>阿部は植芝の名を知らなかったので、興味を覚えず、「疲れているので眠らせていただきます」と言った。すると、植芝が阿部の顔に小指を突き出した。<br>「この小指を折ってみなさい」<br>阿部はその非礼にいらついて、植芝を黙らせるために思い切り小指を握った。その瞬間、阿部は車両の床に組み伏せられた。阿部はその場で植芝に弟子入りし、十年間合気道を習うことになる。(中略)<br>エリスは「阿部先生はたいへん控えめな方です。自分からこういう話をしたりはしなかったので、疑問に思った私が聞いてみたんです」と言うから、脚色なしの真実だろう。阿部は柔道家としての修業を続けながら、植芝に合気道も習っていたのである。<br>阿部の柔道には合気道の血が流れていたのだ。<br>その血が、木村をして「まるで真綿に技をかけたようにフワリと受けられ、全然効き目がない。かける技かける技すべて同じ調子で受けられてしまう」と言わしめたのだろう。|[[増田俊也]]『[[木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか]]』(「[[ゴング格闘技]]」、2008年6月号)}}
 
;米国人プロ格闘家を失神させる
:[[ニューヨーク]]からプロボクシング団が来日した際、マンガンという団長が[[竹下勇]]の案内で植芝道場を訪ね、稽古を見学したところ、[[八百長]]だと言い出し、盛平に試合を申し込んだ。盛平は断ったが相手が引き下がらないので、手合わせすることになった。6尺8寸、30貫の大男であるマンガンが盛平の胸に飛び蹴りを入れたが、盛平が身をかわし、マンガンは頭から落ちて気を失った<ref name=shinagawa/>。
 
=== 教え方 ===