削除された内容 追加された内容
6行目:
 
== 生涯 ==
1911年(明治44年)[[松平胖]]と妻[[松平俊子|俊子]]の第2子、長女として誕生。初名'''佳子'''。1930年(昭和5年)、[[実践女学校]]在学時、[[関東大震災]]への援助に対する返礼として[[時事新報]]が企画した[[遣米答礼使]]の一人となり、監督者として同行した母・俊子とともに約1か月米する。
 
1931年(昭和6年)、母方の親戚<ref>祖父[[鍋島直大]]の継室[[鍋島榮子|榮子]](俊子の生母ではない)が[[広橋家|廣橋家]]出身。</ref>の伯爵[[広橋眞光|廣橋眞光]]の養妹となって名を'''誠子'''と改め、10月5日に当時日本帝国陸軍騎兵少尉だった[[朝鮮]]王族の[[桃山虔一|李鍵]]公と見合い結婚した。佳子の実家は無爵であったため、[[李王家]]との身分的な釣合のため、伯爵家である広橋の養妹となっての結婚だった。広橋の妻[[広橋規子|規子]]の母親[[梨本伊都子]]は皇族の妻であり、佳子の母の異母姉でもあった。また、伊都子の長女[[李方子|方子]]は李鍵の叔父である[[李垠]]に嫁いでいた。佳子は李鍵との間に、沖・沂・沃子の2男1女を産む。邸宅は儲け、[[皇室]]の[[御料牧場]]だった渋谷[[常盤松町にあった]]の大邸宅(現・[[國學院大學]]<ref>『渋谷・実践・常磐松 ~知っていますか 過去・現在・未来』井上一雄、ブイツーソリューション, 2017, p75</ref>)で暮らした
 
戦後、1947年(昭和22年)の[[日本国憲法]]施行に伴い、一家は[[王公族]]の身分と[[日本国籍]]を喪失し、李鍵は日本に[[帰化]]して桃山虔一となり、誠子は'''佳子'''に<ref>誠子は改名する前から普段、自分の名前を「佳子」と表記していた。[[#新城(2015)|新城(2015)]] p.127</ref>、子供たちも忠久・欣也・明子と改名した<ref>「桃山」姓は「明治天皇崇拝者」の李鍵が[[桃山御陵]]にあやかって、[[昭和天皇]]の了承を得た上で採用したものである。[[#新城(2015)|新城(2015)]] p.222</ref>。戦後の生活は困窮し、虔一は渋谷で元使用人と汁粉屋をやったり、農場経営をしたり、佳子は[[銀座]]の銀六デパートに菓子屋「桃山」をはじめたりと、苦労を重ねた。「桃山」では自ら仕入して店頭に立ち、戦中に制定された宮中服で売り子をした。その後、銀座の会員制社交クラブ”銀座倶楽部”の雇われマダム(社長)となる<ref>桃山佳子が社長ということで、[[高松宮|高松宮妃]]や皇籍離脱した[[春仁王妃直子|閑院直子]]ら往時の名流夫人が続々と入会してきた。[[#新城(2015)|新城(2015)]] p.223</ref>。
 
しかし、性格の不一致のあった夫・虔一との溝が広がり、1951年(昭和26年)5月離婚し、旧姓の松平に戻った。虔一によると、佳子は婚約前から付き合っていた華族青年がおり、結婚から10か月後に生まれた長男が虔一の子でないことが戦時中の血液検査で分かったという。離婚により、長男を佳子が、次男と長女を虔一が引き取り、長女はしばらく後に佳子と同居した。<ref name=kawahara>『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』p266-286</ref>。