「チャナク危機」の版間の差分

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1922年9月9日、トルコ軍は[[ギリシャ王国|ギリシャ]]軍を破り、[[イズミル]]を奪還、[[イスタンブール]]近くまで軍を進めた([[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]])。イギリス政府は9月15日に[[閣議]]を開き、イギリス軍は現状の地にとどまることが決定された。その翌日、[[外務大臣]]の[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|カーゾン卿]]不在のまま、一部の閣僚がトルコを威嚇する声明を発表し、[[セーヴル条約]]違反を根拠にイギリスと[[自治領]]による[[宣戦布告]]を示唆した。9月18日、[[ロンドン]]にもどってきたカーゾンはこうした声明が親トルコ的なフランスの[[フランス首相|首相]][[レイモン・ポアンカレ]]を憤慨させるだろうことを指摘し、彼を取りなすためにパリに渡った。しかし、ポアンカレ首相はすでにチャナクのフランス分遣隊の退却を指示し、トルコに対して[[停戦|休戦]]地帯を尊重するよう説得していた。カーゾンは9月20日に[[パリ]]に到着し、ポアンカレとの激しいやり取りを交わしたあとで、トルコと休戦交渉を始めることに合意した<ref name="Macfie">Macfie, A. L. "The Chanak Affair (September–October 1922)", ''Balkan Studies'' 1979, Vol. 20 Issue 2, pp 309–341.</ref>。
 
イギリス世論はチャナクでの事件とふたたび戦争が始まる可能性におびえた。ロイド・ジョージ首相が[[自治領]]の首相たちに十分に相談しなかったことも問題をこじれさせた。8年前の[[第一次世界大戦]]のときと違って、何もしなくても自治領がこの紛争を自国の問題だと考えてくれるわけではなかった。とくにカナダの[[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング|マッケンジー・キング]][[カナダ首相|首相]]はカナダのとるべき道は議会が決定すると主張した。カナダの[[カナダ議会|下院]]が本件を議論し始めたときには、もうチャナク危機は過ぎ去っていた。にもかかわらず、キング首相は自分の立場をはっきりと打ち出した。カナダが外交においてはたすべき役割はカナダ議会が決めるものであり、それはイギリス政府と異なることもありうる、と<ref>Dawson, Robert Macgregor. ''William Lyon Mackenzie King: 1874&ndash;1923'' (1958) pp 401–16</ref>。他の自治領の首相たちも、[[セルビア]]や[[イタリア]]、[[ルーマニア]]などと同じように、イギリス政府を支持しなかった<ref name="Macfie"/>。
 
9月23日、イギリスは閣議で[[トラキア|東トラキア]]をトルコに譲ることを決定した。9月28日、トルコの[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]はチャナクでのいかなる紛争も回避するよう軍隊に命令したこと、また和平交渉に参加し、その場所としてムダンヤを指定することを、イギリス側に伝えた。両者は10月3日にムダンヤに会し、10月11日に{{仮リンク|ムダンヤ休戦協定|en|Armistice of Mudanya}}に合意した。それはイギリス軍による攻撃開始予定の2時間前のことであった。イギリスの後続部隊が到着したことも、トルコの歩み寄りを後押ししたかもしれない<ref name="Macfie"/><ref name="Psomiades">Harry J. Psomiades, ''The Eastern Question, the Last Phase: a study in Greek-Turkish diplomacy'' (Pella, New York 2000), 27-36. </ref>。