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==概要==
[[明治]]から[[大正]]期にかけて大きな財をし、[[大倉財閥]]を創始した[[大倉喜八郎]]が、長年に亘って収集した古美術・典籍類を収蔵・展示するため、邸宅の一角に[[1917年]](大正6年)に財団法人大倉集古館として開館する。開館からまもない[[1923年]](大正12年)、[[関東大震災]]によって当時の展示館と一部の展示品を失い、一時休館を余儀なくされた。[[1927年]](昭和2年)には建築家[[伊東忠太]]の設計と大成土木(現:[[大成建設]])による施工で再建され、[[耐震]]耐火の中国風の展示館が[[1927年]](昭和2年)完成し、翌年再開館した{{Sfn|新建築|2019|p=60}}。この建築は展示室から長い[[回廊]]が伸び六角堂を経て表門に至る壮大なものだった。喜八郎の死後は、その[[嫡男]]である[[大倉喜七郎]]が近代日本画など収蔵品の充実に努めた。
 
[[太平洋戦争]]時の[[空襲]]も乗り越えるが、戦後、敷地内にホテルオークラ([[ホテルオークラ東京]])が敷地内に建設されることになりを受け、一部の建物が整理解体された。喜八郎の子[[大倉喜七郎1990年]]も近代日本画など(平成2年)展示室は都収集品を集古館歴史的建造物寄贈している<ref>選定され、[http://www.shukokan.org/outline/index.html#link04 「大倉集古館の概要」[1998年]](館公式サイト平成10年</ref>には国の[[登録有形文化財]](建造物)に登録された
 
[[1990年]](平成2年)展示室は都の歴史的建造物に選定され、[[1998年]](平成10年)には国の[[登録有形文化財]](建造物)に登録された。
 
=== ホテルオークラ東京の建て替えに伴いリニューアル ===
竣工以来50年が経過し老朽化が顕著となったホテルオークラ東京本館の[[The Okura Tokyo]]への建て替えに伴い沿って、集古館もリニューアルされることになった。工事はり、谷口建築設計事務所([[谷口吉生]])の設計と大成建設の施工で、周りに増築されていた部分が撤去され、集古館はの上で約6m[[曳家]]され{{Sfn|新建築|2019|p=61}}、[[免震構造]]の地下階増築の上でによって、[[ロビー]]や[[ショップ]]、[[ホール]]等が設けられ{{Sfn|新建築|2019|p=61}}、[[2019年]](令和元年)9月12日にリニューアルオープンした{{Sfn|新建築|2019|p=61}}<ref>{{Cite web|url=https://tech.nikkeibp.co.jp/atcl/nxt/column/18/00110/00105/|title=谷口吉生流「オークラ再生」ここにも! 免震化した大倉集古館が本日開館|publisher=日経 xTECH|accessdate=2019-09-12}}</ref>。竣工したThe Okura Tokyoにおける最大の宴会場である「平安の間」には喜七郎が目指した「平安」のイメージを継承するものの一つとして、集古館が所蔵する喜七郎が蒐集した[[ロビー国宝]][[ショップ古今和歌集仮名序|古今和歌集序]]』を[[モチ]]とする壁面装飾設けら施さ{{Sfn|新建築東京人|2019|p=61107 - 108}}、[[2019年]](令和元年)9月12日に再開館した
 
なお、The Okura Tokyoにおける最大の宴会場である「平安の間」には、集古館が所蔵する喜七郎が蒐集した[[国宝]]『[[古今和歌集仮名序|古今和歌集序]]』を[[モチーフ]]とする壁面装飾が施された{{Sfn|東京人|2019|p=107 - 108}}。
 
=== 運営者 ===
設置運営者は公益財団法人大倉文化財団であり、日本・東洋の絵画、[[書跡]][[彫刻]][[陶磁器]][[漆工]][[金工]][[刀剣]]、[[能面]]、能装束、考古遺物など約2,500点と中国の古典籍([[漢籍]])約1,000部を所蔵し、年間5回ほどの企画展を開催している。
 
==主な収蔵品==