「姫田忠義」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
46行目:
[[1958年]]、宮本常一から薦められた[[対馬]]に渡り、ほとんど資金がないまま、15日間にわたって村々を訪ね歩く。この際に出会った60歳の老人から、父親の借金を一生をかけて返済した話をされる。「わしは、あんたにこの話をするためにいままで生きてきたようなものだ」と言われて衝撃を受け、この言葉が以降の活動の原点となる。その後は教養番組のシナリオライター業に従事。1961年にはカメラマンの[[伊藤碩男]](のちに民映研の創立に参加)とともに、再度、対馬を訪れ、人々の姿をフィルムに撮影する。
 
[[1965年]]から[[1966年]]にかけて製作された、宮本常一が監修をつとめたテレビドキュメンタリー「日本の詩情」の取材・脚本・構成を担当。日本各地の村々を取材して周り、日本列島の多様性に目覚める。その後も、宮本主催の雑誌「あるくみるきく」の取材などで、山村文化に注目して日本中の山々をめぐり、また[[沖縄]]や[[アイヌ]]の人々などを訪ね歩く
その後も、宮本主催の雑誌「あるくみるきく」の取材などで、山村文化に注目して日本中の山々をめぐり、また[[沖縄]]や[[アイヌ]]の人々などを訪ね歩く。
 
[[1968年]]、[[アイヌ文化]]研究者の[[萱野茂]]と出会い、アイヌの深い精神文化を教えられて感銘を受ける。その後、萱野の著書執筆への協力活動や、萱野のアイヌ文化復興活動を映像におさめるなど、生涯にわたる交流を続けることになる。
57 ⟶ 56行目:
[[1975年]]、フランスの人類学者[[ジャック・ルフィエ]]が「アイヌ文化研究」のため来日したため、面会して様々な日本の伝統文化の魅力について語り、意気投合する。[[1977年]]から姫田もフランスに渡り、[[フランス領バスク]]、[[北カタルーニャ]]、[[オクシタニア]]地方などの南フランスの固有文化について、[[コレージュ・ド・フランス]]形質人類学研究所と、共同研究を行った。
 
[[1975年]]から師の宮本とともに、山口県[[光市]]での[[村義正]]らの「[[猿まわし]]復興」活動にも関わり、その調教の記録を「周防猿まわし」として映像化した。
 
[[1976年]]には「株式会社民族文化映像研究所」設立。[[1981年]]からは民族文化映像研究所内で、その映像を定期上映する活動「アチック・フォーラム」を開始した。