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== 概説 ==
[[朝鮮半島]]では、[[石器]]などの発見から、数万年前から人が住んでいたと思われるが、現在の[[朝鮮民族]]との繋がりは明らかでない。約10万年前の[[最終氷期]]から[[紀元前]]8000年頃まで現在より海面が約130mも低かったため、[[東シナ海]]の大部分は陸地であったが、紀元前4000年ころにかけての[[海面上昇]]により当時の沿岸部は海中に没しているとされている。最終氷期に[[日本列島]]とは対馬海峡で短期間漂砂によって陸橋が形成され繋がっていた可能性を指摘する研究がある<ref>松井裕之, 多田隆治, 大場忠道、「[https://doi.org/10.4116/jaqua.37.221 最終氷期の海水準変動に対する日本海の応答 塩分収支モデルによる陸橋成立の可能性の検証]」 『第四紀研究』 1998年 37巻 3号 p.221-233, {{doi|10.4116/jaqua.37.221}}</ref>。[[伊藤俊幸]]によると、紀元前1万年以前の旧石器時代人は現在遺跡韓(朝鮮)民族の直接の先祖で50か所程度しか発見されておらず<ref>[[長浜浩明]]『日本なく、直接誕生』p.54</ref>、先祖は紀元前1万約2000前の新石器時代人から前5000年までの5千年間は[[韓国国立中央博物館]]の年表では空白となっており、ほんど遺跡が発見推定されていない<ref>長浜浩明金両基監修『韓国人は何処から来たか』pp.16-21</ref><ref>長浜浩明『日本誕生歴史pp[[河出書房新社]] 2002、p.54-552</ref>。
 
[[紀元前4000年]]頃に[[櫛目文土器]]が出現する。櫛目文土器の最古のものは[[遼河]]地域の[[興隆窪文化]](紀元前6200年-紀元前5400年)の遺跡で発見されている<ref>[http://www.ipc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040201-r-2.htm 中国北方新石器文化研究の新展開【詳細報告】「東北アジアにおける先史文化の交流」 王 巍(中国社会科学院考古研究所・副所長)]</ref>ことから、[[遼河文明]]の担い手である[[ウラル系民族]]([[ハプログループN (Y染色体)]])が朝鮮に櫛目文土器をもたらしたことが考えられる。朝鮮民族にはハプログループN (Y染色体)が一定数見られることから、朝鮮民族の基層にウラル系民族がある可能性が考えられる
[[大阪市立東洋陶磁美術館]]名誉館長の[[伊藤郁太郎]]の見解として、「1969年から1971年にかけて、東三洞貝塚での櫛目文土器の下層から、尖底・円低無文土器や平低流線文土器が発見され、先櫛目文土器と名付けられた。これらの土器は、東三洞の他、[[慶尚南道]][[真岩里]]や[[咸鏡北道]][[西浦項]]貝塚などからも発見されており、最古の土器文化が広い地域にまたがっていたことが推測される。それらの中に含まれていた[[豆粒文土器]]が、日本の[[長崎県]][[泉福寺洞窟]]遺跡や[[福井洞穴]]などから発見される豆粒文土器と類似している」と長浜浩明は紹介している。また長浜は、東三洞の対岸にある[[対馬]]の[[腰高遺跡]]からは7000年前の[[隆起文土器]]が発掘されており、そこを経由して半島へ移り住んでいったことが想像され、縄文人が7000年前から無人の朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出していたと述べている<ref>長浜浩明『韓国人は何処から来たか』[[展転社]] 2014、pp.28-33</ref>。さらに長浜は、朝鮮半島南部の[[煙台島]]貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は縄文人の特徴と多くの点で一致しており<ref>小片丘彦「朝鮮半島出土古人骨の時代的特徴」『鹿児島大学歯学部紀要』 (18), 1-8, 1998</ref>、韓国人とは似ても似つかぬ形態であり、最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという考古学からの推論が、形態人類学によって裏付けられた、と述べており<ref>長浜浩明『韓国人は何処から来たか』[[展転社]] 2014、pp.34-38</ref>、また、朝鮮半島南部の[[勒島]]から弥生時代中期(紀元前100年)と推定される73基に及ぶ墓が見つかり、[[甕棺]]墓や北部九州の[[弥生土器]]の出土、骨格の特徴や抜歯風習などから西北九州と密接な関係を示唆している<ref>小片丘彦「朝鮮半島出土古人骨の時代的特徴」『鹿児島大学歯学部紀要』 (18), 1-8, 1998</ref>ので、北部九州からやってきた人々か、その子孫が住んでいた遺跡であると述べている。同様に、[[金両基]]監修、[[姜徳相]]、[[鄭早苗]]、[[中山清隆]]編集の『韓国の歴史』によると、旧石器時代人は現在の韓(朝鮮)民族の直接の先祖ではなく、直接の先祖は紀元前約2000年前の新石器時代人からと推定されている<ref>金両基監修『韓国の歴史』[[河出書房新社]] 2002、p.2</ref>。
 
[[紀元前4000年]]頃に[[櫛目文土器]]が出現する。櫛目文土器の最古のものは[[遼河]]地域の[[興隆窪文化]](紀元前6200年-紀元前5400年)の遺跡で発見されている<ref>[http://www.ipc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040201-r-2.htm 中国北方新石器文化研究の新展開【詳細報告】「東北アジアにおける先史文化の交流」 王 巍(中国社会科学院考古研究所・副所長)]</ref>ことから、[[遼河文明]]の担い手である[[ウラル系民族]]([[ハプログループN (Y染色体)]])が朝鮮に櫛目文土器をもたらしたことが考えられる。朝鮮民族にはハプログループN (Y染色体)が一定数見られることから、朝鮮民族の基層にウラル系民族がある可能性が考えられる。
(紀元前4000年頃から南部・西部で陸での[[稲作]]が始まったとする主張もあるが、証拠となる物は見つかっていない。)一方で、長浜は、櫛目文土器は九州の[[曽畑式土器]](縄文前期)そのものであると述べている<ref>長浜浩明『日本の誕生』p.58</ref>。
 
東三洞貝塚は3つの文化層からなり、最下層の1期層からは、隆起文・押引文・無文土器や磨製石器が、2期層からは櫛目文土器や黒曜石が、3期層からは無文平底土器が発掘されており、櫛目文土器にまじって九州の縄文土器片や、西北九州型の釣針・黒曜石が出している<ref>金両基監修『韓国の歴史』[[河出書房新社]] 2002、pp.4-5</ref>。東三洞貝塚で大量の縄文土器と九州産[[黒曜石]]が出土しており、縄文人がやってきた確かな証拠といえる。朝鮮半島では銛や鏃に最適な黒曜石が産出されない<ref>『日本人はるかな旅 (4)』NHK出版、p.93</ref> 。
 
紀元前1500年頃から[[無文土器]]が出現し同時に[[支石墓]]が多数建造されるようになる。これに先駆けて[[紀元前2000年]]から紀元前1500年頃、朝鮮半島より北方の[[遼河]]流域から北朝鮮にかけての[[夏家店下層文化]]で、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現しており、これらが北方から流入した可能性を示唆している。
 
[[山海経]]には、紀元前1000年から前300年の朝鮮半島の様子が「蓋国は鉅燕の南にあり、それは倭の北であり、また倭は燕に属している」とあり、燕は遼東半島から南満洲辺りを指し、その南の蓋国とは[[北朝鮮]]辺りと考えられ、今の[[韓国]]辺りは縄文人の子孫である[[倭人]]が住んでいた<ref>長浜浩明『日本の誕生』pp.59-62</ref>。
 
紀元前500年頃から[[水稲栽培]]が開始される<ref>松菊里遺跡の水田跡</ref>。水稲の栽培は中国から北方周りの陸伝いではなく、海を越えて半島南西部にもたらされたというのが定説となっている。この水稲文化をもたらしたのは[[ハプログループO1b2 (Y染色体)]]の集団と考える学者がいる<ref>崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 日本人集団・日本語の成立史』(勉誠出版 2009年)</ref>。