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== 生涯 ==
[[文化 (元号)|文化]]3年([[1806年]])、4代藩主・[[青山忠裕]]の四男として誕生した。[[天保]]6年([[1835年]])、父・忠裕の隠居により家督を相続するした。天保8年([[1837年]])に[[寺社奉行]]、天保11年([[1840年]])[[大坂城代]]に就任した
 
[[弘化]]元年([[1844年]])に老中に抜擢された。
[[弘化]]元年([[1844年]])に老中に抜擢された。弘化5年([[1848年]])、首席老中・[[阿部正弘]]が[[徳川斉昭]]を重用するのに反発し、[[水戸藩]]内の旧縁で斉昭に反目する水戸藩士の朝比奈某を焚きつけ、斉昭と親しい阿部を退けようと陰謀を企てたが、事前に計略が発覚し忠良は逆に詰め腹を斬らされる形で老中を辞任することとなり、幕閣を追放された。
 
[[弘化]]元年([[1844年]])に老中に抜擢された。弘化5年([[1848年]])、首席[[老中首座]]の[[阿部正弘]]が[[徳川斉昭]]を重用するのに反発し、[[水戸藩]]内の旧縁であり斉昭に反目する[[水戸藩]]士の朝比奈某を焚きつけ、斉昭と親しい阿部を退けようと陰謀を企てたが、事前に計略が発覚し忠良は逆に詰め腹を斬らされる形で老中を辞任することとなりさせられ、幕閣を追放された。
[[文久]]元年([[1861年]])に忠良は[[春日神社 (丹波篠山市)|篠山春日神社]]に能舞台能楽殿を寄進した<ref>能舞台は2003年に国の[[重要文化財]]に指定されている。</ref>。翌文久2年([[1862年]])隠居。家督は次男・[[青山忠敏|忠敏]]が継承した。
 
[[文久]]元年([[1861年]])に忠良は[[春日神社 (丹波篠山市)|篠山春日神社]]に能舞台能楽殿を寄進した<ref>能舞台は2003年に国の[[重要文化財]]に指定されている。</ref>。翌文久2年([[1862年]])隠居。家督は次男・[[青山忠敏|忠敏]]が継承した。
 
[[元治]]元年([[1864年]])、死去。
 
 
== 逸話 ==
* 娘の一人は、秋田[[久保田藩主]][[佐竹義堯]]の3人目の正室であった。この婚姻は、大名間の結婚としては当時としては珍しい見合いによるものであった。佐竹義堯は見合いの場で一度でこの娘の美貌に惚れ込み、結婚を承諾した。ところが輿入れしてきた花嫁は似ても似つかぬ醜女であった。驚いた佐竹義堯が忠良に問い合わせてみると、娘が醜いことから縁組の当てが無く、困った忠良が見合いのときに替え玉を立てていた。とはいえ大掛かりな婚礼準備の全てが進行中であり、また一度承諾した以上は婚姻するしかなく、義堯は止む無く忠良の娘を一旦正室とした。しかし僅か9日後に理由を付けて離婚したとされる。
 
== 系譜 ==