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[[下総国]]に生まれる。妙宣寺において日英に学び、中山法華教寺に入門する。1427年に上洛し、[[鎌倉]]や[[京都]]など各地で布教活動を行う。1433年には[[肥前国]]へ赴く。同年に再び上洛し、[[本法寺]]を開く。日親は諸寺院を日蓮宗に改宗させ、6代将軍[[足利義教]]への説法の機会を得た際に他宗の喜捨を説いて建言を禁止される。禁に背いたために投獄され、本妙寺は破却となる。拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説が誕生し、「鍋かぶり日親」と呼ばれた。1441年の[[嘉吉の乱]]で義教が殺されると赦免されるが、その後も8代将軍[[足利義政]]の上洛命令などを受け、投獄もされている。1463年には[[町衆]]の[[本阿弥清延]]の協力を得て本妙寺を再興する。1488年に死去、享年82。
 
日親と[[不受不施義]]
[[日蓮]]の法華経に対する純粋な姿勢も、室町時代に入ると宗派が勢力を拡大していく過程の中で、他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを平気で受けるなど、次第に変質していった。このような状況の中で、日親は[[不受不施義]]を主張した。日親は京都一条戻橋で辻説法をはじめたが(1427)、比叡山延暦寺や将軍家の帰依を受けていた臨済宗などの他宗派から激しい弾圧を受けた。また日親は法華経によって、当時の乱れた世の中を救うべく(同時代は正長の土一揆や後南朝勢力の反乱などの動乱が続いた)、足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み「立正治国論」を著し、直訴を試みたが投獄され(1440)、真っ赤に焼け爛れた鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けた。