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== 略歴 ==
王檝の字は巨川と言い、[[鳳翔府]][[陳倉区|虢県]]の出身であった。父の王霆は[[金 (王朝)|金朝]]に仕えて武節将軍・[[麟
[[1214年]]([[甲戌]])、宣撫使の職を授かった王檝はサムカ・バアトルと猛安に従って古北口を降し、[[薊州]]・[[懐仁市|雲州]]・[[順州]]を平定し、数万の漢人兵を集めて遂に金朝の首都[[中都]]を包囲した。[[1215年]]([[乙亥]])に中都が陥落すると、王檝は民から掠奪することを禁止するよう進言し、包囲戦で飢餓状態にあった城民には軍糧を供給させた。また、王檝は戦乱によって農耕用の家畜が不足していることを憂い、軍で牛を大量に捕らえてその10分の1を農民に供給させたため、民は大いに喜んだという。その後、サムカ・バアトルと猛安の命によって保定・新城・信安・雄州・覇州・文安・清州・滄州を招諭して投降させ、王檝自身は滄州を鎮撫した。以上の功績により、チンギス・カンと謁見した王檝は銀青栄禄大夫の地位を授かり、前職に加え御史大夫・千人隊長(千戸)に任じられた<ref>『元史』巻153列伝40王檝伝,「甲戌、授宣撫使、兼行尚書六部事。従三合抜都・太傅猛安率兵南征、下古北口、攻薊・雲・順等州、所過迎降、得漢軍数万、遂囲中都。乙亥、中都降。檝進言曰『国家以仁義取天下、不可失信於民、宜禁虜掠、以慰民望』。時城中絶粒、人相食、乃許軍士給糧、入城転糶、故士得金帛、而民獲粒食。又議『田野久荒、而兵後無牛、宜差官盧溝橋索軍回所駆牛、十取其一、以給農民』。用其説、得数千頭、分給近県、民大悦、復業者衆。三合・猛安俾檝招諭保定・新城・信安・雄・覇・文安・清・滄諸城、皆望風款附、乃置行司于滄州以鎮之。遂従猛安入覲、授銀青栄禄大夫、仍前職、兼御史大夫、世襲千戸」</ref>。
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