削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
2行目:
 
== 略歴 ==
王檝の字は巨川と言い、[[鳳翔府]][[陳倉区|虢県]]の出身であった。父の王霆は[[金 (王朝)|金朝]]に仕えて武節将軍・[[麟県|麟]]主簿になった人物で、王檝も[[科挙]]を受けて[[進士]]になろうとしたが果たせず、[[終南山]]で学問を続けた。その後、[[泰和 (金)|泰和]]年間([[1210年代]])初めに金朝に仕官し、副統軍として[[涿鹿]]に赴任した<ref>『元史』巻153列伝40王檝伝,「王檝字巨川、鳳翔虢県人。父霆、金武節将軍・麟主簿。檝性倜儻、弱冠挙進士不第、乃入終南山読書、渉猟孫・呉。泰和中、復下第、詣闕上書、論当世急務、金主俾給事縉山元帥府。尋用元帥高琪薦、特賜進士出身、授副統軍、守涿鹿隘」</ref>。[[1211年]]、[[チンギス・カン]]による[[第一次対金戦争|金朝侵攻]]が始まると、王檝は3日にわたって抗戦したものの敗れて捕虜となった。チンギス・カンは捕虜として引き出された王檝の死を恐れず金朝に殉じようとする態度を気に入り、都統の地位を授けて山西地方で兵を集めさせた。その後、紫荊関の攻略、[[涿州]]・[[易州]]・[[保州]]の平定に活躍し、[[雄州]]では守将の孫呉を説得して投降させる功績を挙げた<ref>『元史』巻153列伝40王檝伝,「太祖将兵南下、檝鏖戦三日、兵敗見執、将戮之、神色不変、太祖問曰『汝曷敢抗我師、独不懼死乎』。対曰『臣以布衣受恩、誓捐躯報国、今既僨軍、得死為幸』。帝義而釈之、授都統、佩以金符、令招集山西潰兵。従大軍破紫荊関、取涿・易・保州・中山、軍次雄州。節度使孫呉堅守不下、檝入城喩以禍福、呉遂以城降」</ref>。
 
[[1214年]]([[甲戌]])、宣撫使の職を授かった王檝はサムカ・バアトルと猛安に従って古北口を降し、[[薊州]]・[[懐仁市|雲州]]・[[順州]]を平定し、数万の漢人兵を集めて遂に金朝の首都[[中都]]を包囲した。[[1215年]]([[乙亥]])に中都が陥落すると、王檝は民から掠奪することを禁止するよう進言し、包囲戦で飢餓状態にあった城民には軍糧を供給させた。また、王檝は戦乱によって農耕用の家畜が不足していることを憂い、軍で牛を大量に捕らえてその10分の1を農民に供給させたため、民は大いに喜んだという。その後、サムカ・バアトルと猛安の命によって保定・新城・信安・雄州・覇州・文安・清州・滄州を招諭して投降させ、王檝自身は滄州を鎮撫した。以上の功績により、チンギス・カンと謁見した王檝は銀青栄禄大夫の地位を授かり、前職に加え御史大夫・千人隊長(千戸)に任じられた<ref>『元史』巻153列伝40王檝伝,「甲戌、授宣撫使、兼行尚書六部事。従三合抜都・太傅猛安率兵南征、下古北口、攻薊・雲・順等州、所過迎降、得漢軍数万、遂囲中都。乙亥、中都降。檝進言曰『国家以仁義取天下、不可失信於民、宜禁虜掠、以慰民望』。時城中絶粒、人相食、乃許軍士給糧、入城転糶、故士得金帛、而民獲粒食。又議『田野久荒、而兵後無牛、宜差官盧溝橋索軍回所駆牛、十取其一、以給農民』。用其説、得数千頭、分給近県、民大悦、復業者衆。三合・猛安俾檝招諭保定・新城・信安・雄・覇・文安・清・滄諸城、皆望風款附、乃置行司于滄州以鎮之。遂従猛安入覲、授銀青栄禄大夫、仍前職、兼御史大夫、世襲千戸」</ref>。