「地下鉄道 (秘密結社)」の版間の差分

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==旅の様子==
逃亡中、本当の鉄道を利用した奴隷もまれにいたが、通常は歩いたり荷車で移動した。奴隷たちを捕まえようとする追っ手を撒くために、うねりくねった経路をたどった。逃亡者の大多数が、40歳以下の[[農民]]の男性だったと言われている。逃亡の旅道は、女性や子供には険しく危険すぎた。ただし、通常は、地下鉄道を通して逃亡し自由な生活を確立した奴隷たちは、自分たちの妻や子供を主人から買い取り、その後一緒に暮らした。これが可能だったため、実際、秘密の逃亡によって亡命した奴隷たちに加えて、逃亡はしなかったが奴隷の身から解放され、地下鉄道を運営していた勇気ある人々感謝した黒人たちは、相当な数がいた。
 
地下鉄道の詳細な情報が公的機関などに流出してはならないため、道筋や隠れ家の場所などの情報は全て口頭で伝えられた。南部の新聞には、逃亡奴隷についての情報が頻繁に掲載され、捕まえた者には主人から賞金が出された。このような賞金稼ぎを職業とした奴隷捕獲人は、遠くはカナダまで奴隷を追い、捕まえようとした。働き盛りの屈強な黒人は、奴隷の主人たちにとって投資した動産であり労働力だった。また奴隷ではない「自由黒人」たちでさえ、拉致され奴隷として売られることもあった。その黒人の自由を署名入りで正式に公証した個人の「自由証明書」でさえ、簡単に破り捨てられ、完全な自由を保障するとは限らなかった。
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==法的・政治的見解==
地下鉄道によって、北部の州と奴隷州の間で摩擦が大きくなった。北部には、奴隷を自由にしようと活動する奴隷制度廃止論者たちに、どちらかと言えば共感した人たちは多くいた。また、南部の人々は何年にもわたって、脱走奴隷を捕まえるために強力な法律を制定しようと推し進めた。[[1793年]][[逃亡奴隷法]]は、[[アメリカ合衆国議会|合衆国議会]]が承認した初めての、奴隷制が廃止されている州での逃亡奴隷たちの問題について規制した法律であった。その後、南部州の議員力もあって、議会は[[1850年]]に逃亡奴隷法を承認し、逃亡奴隷の捕獲が強制された。この法律によって、奴隷制が廃止されている州に亡命した奴隷は、もはやそこで法的に自由になることが不可能になり、結果として奴隷はカナダや英国領土に亡命するしかなかった。またこの法律の制定により、オハイオ州などに通じる地下鉄道の発達が促された。これと同時期に、南部では数多くの奴隷の反乱が失敗に終わっており、首謀者のみならず、罪のない奴隷たちへの自警団による報復の暴行が頻発、北部へ逃亡する奴隷の数がさらに増加した。
 
[[南北戦争]]で北部と南部の間の対立がピークに達した時には、数多くの奴隷たちや自由黒人たちが連邦国軍の兵士として連合国軍と戦った。[[合衆国憲法]]第13修正が承認された後は、他国に亡命していた黒人たちが合衆国に帰国しても安全になったため、地下鉄道はそれまでと逆の動作をとり、黒人たちが帰国するのを補助した。
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さらに遠くでは、英国領(現在はカナダの一部)に黒人たちの集落が構えられた。その中には、ジェームズ・ダグラス総督が黒人の移住を勧めた[[ノバスコシア州|ノバスコシア]]や[[バンクーバー島]]などの島が挙げられる。ダグラスは、黒人のコミュニティーを設置することによって、その島々をアメリカ合衆国と合併しようとする勢力への防波堤の役目を果たせる、と考えた。
 
目的地に着いたときに、失望させられた逃亡者たちも数多くいた。イギリス領では奴隷制は廃止されていたものの、人種差別はありふれていたからである。到着した土地で仕事を手に入れることも困難だった。しかし、ほとんどの黒人たちはその場所に居続けた。アッパー・カナダに亡命した20,000人中、米国に帰国したのはわずか2割だった。<ref>Parks Canadaより[http://www.pc.gc.ca/canada/proj/cfc-ugrr/commemoration/pg09_e.asp Number of Underground Railroad refugees arriving in Canada](英語)</ref>
 
南北戦争が始まったことで、他国に亡命していた数多くの黒人たちが連邦国軍の兵隊に徴募し、その後カナダに戻った黒人たちもいた中で、たくさんの黒人が米国に残った。また数千人もの黒人たちが、終戦後、家族や友達と再会するために、南部の州に戻っていった。ほとんどの黒人たちが、奴隷解放や再建時代の動きのもたらす未来に、希望をもっていた。