「オデッセイ (ゲーム機)」の版間の差分

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Astro-note (会話 | 投稿記録)
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== 開発 ==
[[ファイル:BROWN-BOX 20160501.JPG|thumb|right|230px|ブラウンボックス]]
1951年、軍事用電子機器メーカーのローラル・エレクトロニクスにエンジニアとして勤めていたラルフ・ベアは、[[レーダー]]や[[ソナー]]等に使用する[[テレビ|テレビジョン]]機器の研究の中で、「単純にテレビ放送を見るだけではなく、視聴者がテレビ画面を操作する」というアイデアを思いついた。しかしローラルにおけるベアの上司はそのアイデアを支持評価せず、ベア自身もアイデアを追求することなくその他の研究に勤しんだ。1955年、ベアはサンダース・アソシエイツに移り、1960年には500人ほどのエンジニアを監督する映像機器部門の部長職に就いた。
 
1966年8月、バス停で同僚を待っていたベアは、「テレビに繋いでゲームを遊ぶことができる機械」のアイデアを閃き、メモ帳に書き留めた。翌朝、自分のオフィスに戻ったベアはメモに書き留めたアイデアを清書して25ドルの「ゲームボックス」の基本的な仕様の構想を4ページの文書にまとめた。ベアは後に「まさに[[Eureka|エウレカ]]の瞬間だった」と述懐している。
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こうしてベアによって「チャンネルLP(Let's Play)」と呼ばれるゲーム機の試作プロジェクトがスタートした。サンダースは軍需企業だったため、こうした娯楽のための装置のアイデアが受け入れられないことを経験から学んでいたベアは、ひとまず概念実証のための成果物を作ることを優先し、エンジニアのボブ・トランブレー(Bob Tremblay)と共に「TV Game Unit #1(テレビゲーム装置1号)」と名付けられた試作機を作った。1966年12月、サンダースの研究開発部門の責任者であるハーバート・キャンプマン(Herbert Campman)に対して行われたデモンストレーションで、キャンプマンはベアに2000ドルの人件費と500ドルの材料費を与えて研究を続けることを許可し、「チャンネルLP」はサンダースの公式プロジェクトのひとつに格上げされた。
 
年が明けて1967年、ベアのチームにはビル・ハリソン(Bill Harrison)というエンジニアが加わり、新たな試作機の設計と開発が進められ、またベアはゲームのアイデアを求めてキャンプマンの部下であったビル・ラッシュ(Bill Rusch)とゲームのアイデアを話し合った。1967年夏にサンダースの役員を集めて行われたプレゼンテーションにおいて、一人のプレイヤーが動かすドットがもう一人のプレイヤーの動かすドットを追いかける「FOX and HOUND(きつねと猟犬)」や、[[光線銃]]を用いて画面上のドットを撃つターゲットシューティングゲームなどを追加した試作機を発表したが、役員たちの反応は冷淡だった。サンダース社長であるロイデン・サンダース(Royden Sanders)によってプロジェクトの継続は認められたものの、危機感を覚えたベアは、ゲームのアイデアについて話し合ったビル・ラッシュを正式にプロジェクトに招聘し助力を仰いだ。ラッシュは[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]を卒業した優れたエンジニアだったが問題児でもあり、遅刻や昼食時の長時間の外出、研究室にエレクトリック・ギターを持ち込むなどの奇行でベアらを悩ませた。しかしラッシュは2人のプレイヤーが動かすドットとは別に「内部の機械によって制御される3つ目のドット」を実装することを思いつき、これが後に『ポン』の元にもなるオデッセイのピンポンゲームの源流となった。
 
1967年後半より、試作機が徐々に完成に近づいていることを感じたキャンプマンの指示によりこの「テレビゲーム装置」の売り込みが始められを指示した。サンダースは軍需企業であり、民間への販売・流通網を持っていなかったためである。ベアらはまずケーブルテレビ業者に狙いを定め、[[:en:TelePrompTer Corporation|TelePrompTer Corporation]]というケーブルテレビ会社が興味を持ち、った。両者間の話し合いが進められたが1968年4月にはの段階でTelePrompTer社の資金繰りが悪化したため頓挫し契約には至らなかった。不景気の波はサンダースをも襲い、大規模なレイオフによってベアのプロジェクトも一旦中断の憂き目に遭った。9月にプロジェクトは再開され、1969年1月、「TV Game Unit #7(テレビゲーム装置7号)」通称「ブラウンボックス」と呼ばれた試作機が完成し、ベアらはテレビ事業大手各社にプレゼンを行って回った。プレゼンの評判は概ね上々だったものの、商品化のために手を挙げる企業はなく、唯一[[RCA]]だけが興味を示したものの、交渉はまとまらなかった。しかし、[[RCA]]の幹部でありブラウンボックスに興味を持った人物の一人だったビル・エンダース(Bill Enders)がマグナボックスに移り、「もう一度マグナボックスでプレゼンしてくれないか」とベアを説得した。ベアらが最後に行ったそのプレゼンによって、マグナボックスのマーケティング担当副社長であるジェリー・マーティン(Gerry Martin)がGOサインを出し、「ブラウンボックス」は「オデッセイ」として商品化にGOサインを出が決定した。
 
== 主な仕様 ==