「ヨハン・デ・ウィット」の版間の差分

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[[1668年]]、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の[[ネーデルラント継承戦争]]を阻止すべく、イングランドの駐ハーグ大使[[ウィリアム・テンプル (準男爵)|ウィリアム・テンプル]]と協力してイングランド・オランダ・[[スウェーデン]]と三国同盟を締結した。結果、[[アーヘンの和約 (1668年)|アーヘンの和約]]が結ばれたが、[[1670年]]にルイ14世は[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]と[[ドーヴァーの密約]]を結び、スウェーデンとも1672年に[[仏瑞同盟]]を締結、三国同盟は崩壊してオランダは孤立した。
 
第三次英蘭戦争では、1672年3月にイングランドがオランダに[[宣戦布告]]し、続いてフランス王国も[[4月6日]]に宣戦を布告した([[仏蘭戦争|オランダ侵略戦争]])。このため、オランダは海と陸から攻撃を受けるという国家的危機に瀕した。この危機に際して、それまで陸軍を軽視していたデ・ウィットの政策は大いに叩かれることになり、また、周囲の反対や警告を無視して行っていた親仏外交政策も反発を買った。そしてさらに、フランスの示した屈辱的な講和条件を本気で検討しはじめたため、支持者の中にも離れる人が出た。6月にはデ・ウィットは銃撃され、負傷している。さらに民衆のデ・ウィット政権への不満は、8月に自然発生的なクーデターという形で噴出し、デ・ウィットは辞任し、当時22歳のオラニエ公ウィレム3世は、総督には就任しないという宣誓を撤回して、オランダの政権を掌握する。
 
さる7月24日に兄のコルネリスが逮捕され、ハーグのヘバンゲンポールト(現ハーグ監獄博物館)に収監されていた。ヨハン・デ・ウィットも総督時代の失政、公金横領疑惑などで逮捕が間近に迫っていた。デ・ウィットはウィレム3世に取り成しを求める手紙を書いたが、この時ウィレムは、オランダの存亡を一身に背負い、前線でフランスの大軍と対峙しており、こういうタイミングでの言い訳めいた手紙は顰蹙を買ってしまう。
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[[Category:殺人被害者]]
[[Category:拷問被害者]]
[[Category:仏蘭戦争の人物]]
[[Category:ライデン大学出身の人物]]
[[Category:ドルトレヒト出身の人物]]