「今井町」の版間の差分

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[[1568年]](永禄11年)織田信長が[[足利義昭]]を奉じて[[上洛]]すると、松永久秀は信長に従属し、大和一国の支配を認められた。信長の援軍により、[[筒井順慶]]は劣勢に追い込まれた。[[1569年]](永禄12年)[[十市遠勝]]の死後、十市家は筒井方と松永方に分裂し、松永方の十市後室ら一族郎党は今井の河合清長宅へ疎開した([[多聞院日記]])。しかし、[[1571年]](元亀2年)久秀は[[三好三人衆]]と和睦して信長に反旗を翻し、[[信長包囲網]]の一環として[[石山本願寺]]と呼応した。
 
今井郷も[[石山合戦]]の際には、石山本願寺、三好三人衆について織田信長に反抗し、[[堀]]を深くし[[土塁]]や見通しを妨げる筋違いの道路等を築き桝形として[[虎口]]を固め、[[最前線]]である西口に[[櫓 (城郭)]]を設け、今西家を城構えとして[[環濠都市|環濠城塞都市]]となった <ref>橿原市教育委員会の調査により今井町の南西部で南北に延びる幅約2メートルの外濠跡(深さ約80センチ)の西端を確認した。この外濠の幅は約15メートル15mと推定される。平成10年度の調査で、町の正面入り口に当たる西門の東側で同時代の内濠(幅9メートル)9m)と外濠(幅8メートル)8m)が同時につかっていた。周辺は16世紀中頃から後半にかけ、東西450メートル450m、南北250メートル250m2、ニ重や3重の濠を設けたとされる。外濠は信長に降伏後、家臣の明智光秀が埋めたとされる。</ref>を深くし[[土塁]]や見通しを妨げる筋違いの道路等を築き桝形として[[虎口]]を固め、[[最前線]]である西口に[[櫓 (城郭)]]を設け、今西家を城構えとして[[環濠都市|環濠城塞都市]]となった。戦争を仕掛けるためでなく自衛のためにつくった[[要塞|要塞都市]]の一つである。堀は場所によって違うが、幅が5メートル5mから7メートル7m、深さは2メートル2mほどもあった。
 
[[File:織田信長朱印状.jpg|thumb|250px|織田信長今井郷惣中宛朱印状]]