「大石大三郎」の版間の差分

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その後、父内蔵助良雄や兄[[大石良金|主税良金]]は見事[[吉良上野介]]の首級をあげて[[泉岳寺]]の主君[[浅野長矩]]の墓前に捧げ、お預かりの大名屋敷で切腹した([[元禄赤穂事件]])。この事件を契機に父大石内蔵助は英雄化したため、その遺児である大三郎を[[広島藩]][[浅野氏|浅野本家]]が欲しがるようになり、大三郎が12歳になった[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])9月に広島藩仕官が決まり、豊岡を出て広島へ移っていった。広島藩では父内蔵助と同じ1500石の知行と広島城二の丸の屋敷を与えられた。
 
[[享保]]2年([[1717年]])12月12日に元服し、[[享保]]6年([[1721年]])9月19日には藩主[[浅野吉長|浅野安芸守善吉長]]の命により浅野氏一族の[[浅野忠喬|浅野帯刀忠喬]](広島藩[[家老]]・知行5000石)の娘と結婚した。なお姉の[[浅野るり|大石るり]]も先立つ[[正徳]]4年(1714年)にやはり吉長の命によって浅野一族の[[浅野長道|浅野監物長道]]と結婚させられている。大石内蔵助の子らを浅野一族に組み込もうという狙いがあったのだろう。しかしこの妻とはうまくいかず、離縁している。藩主の命令による家老の娘との縁組を破棄するのだからよほど気が合わなかったのだろう。そのあと広島藩士岡田助右衛門の娘を妻に迎えたが、やはりうまくいかず、享保19年に離縁。さらに延享2年には広島藩士浅野八郎左衛門の娘を妻に迎えたが、またしてもうまくいかず離縁。ほとんど芸能人なみの女遍歴である。ここまでくると大三郎に問題があったような気がしてならない。内蔵助の息子という金看板が周囲に過大な期待を抱かせた結果、実像とのギャップ、失望という悪影響を及ぼした可能性もある
 
なお広島藩内においては旗奉行次席・番頭・奏者頭などの重職を歴任したが、「翁草」などには品行がよくなかったという記事が残る。三田村鳶魚の「横から見た赤穂義士」などでは大三郎が梅毒になって鼻欠けになっただとか、1500石の知行を減棒されたなどと書いているが、これらは俗説に過ぎず、確かな根拠はない。それにそんなものに番頭の地位はまわってはこないだろう。