削除された内容 追加された内容
+出典の明記
m編集の要約なし
8行目:
 
== 歴史 ==
[[モスクワ大公]]、後の[[ツァーリ]]に助言する機関として、貴族議会(Boyar Duma) <!-- ボヤール・ドゥーマ -->と呼ばれる組織があった<ref>{{Cite book|和書|author=[[グリゴリー・コトシーヒン|G・コトシーヒン]]|year=2003|title=ピョートル前夜のロシアpublisher=彩流社|pages=P.34-35}}</ref>。しかしながら、こうした貴族権力は皇帝権力の強化を目指したロシア皇帝には邪魔であり、また皇帝権力が貴族権力を抑制するのに充分な力を持ったことから、[[ピョートル1世]](大帝)の時代になるとドゥーマは廃止され、[[1711年]]からは他の機関がこれを代替した。
 
[[日露戦争]]中の[[ロシア第一革命]]に対する回答として、時の皇帝[[ニコライ2世]]は[[1905年]][[8月6日]]にドゥーマの召集を布告した。彼はこの組織を[[立憲君主国]]の議会とは異なり、諮問機関にすぎないと考えていた。ツァーリはドゥーマに立法機能と視察権を与えたため、ある程度は他国の下院議会と同様の働きを有していた。
19行目:
 
第四回議会は1912年から1917年まで開催された。ここでも政治的影響力は制限されていたが、1917年に[[2月革命 (1917年)|2月革命]]が勃発すると、議員たちは臨時政府の設立に尽力し、一定の評価が与えられた。[[ボリシェヴィキ]]による[[十月革命|武力蜂起]]により、ドゥーマの活動は終わった。
 
== 脚注 ==
<references/>
 
{| border="1" cellpadding="1" class="wikitable"