削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
m編集の要約なし
61行目:
8月21日、インテル社からビジコン社に送られた手紙には、ビジコンが望む規模と価格でのLSIの生産は不可能、と読める内容が記され、開発はほとんど暗礁に乗り上げていた<ref name="shima1987-38">[[#endnote_shima1987|『マイクロコンピュータの誕生』 p. 38]]</ref>。
 
1969年8月下旬のある日、嶋らの所へ[[マーシャン・ホフ|テッド・ホフ]]がやってきて、口癖である「My idea is」を発しながら、いっそ4ビットで汎用の、コンピュータの[[CPU]]のようなLSIを作れば良いではないか、というアイディアを説明した<ref name="shima1987-42">[[#endnote_shima1987|『マイクロコンピュータの誕生』 p. 42]]</ref>
 
ビジコン案では、たとえば電卓の加算であれば、2個のレジスタの指数を揃えた後、一個の加算命令で全桁の加算がいっぺんにおこなわれるという「マクロな命令」によるプログラム制御であった<ref group="注">[http://news.mynavi.jp/column/architecture/031/index.html 安藤壽茂による解説]や、嶋による一般向けの説明([[#endnote_bunshun2010|「直訴と独学で作った世界初のCPU」]])ではこれを[[十進法]]のコンピュータと表現している。また『次世代マイクロプロセッサ』p. 59では、[[IBM 1401]]と同様な方式、としている</ref>。これに対し、ホフのアイディアは、4ビットの汎用のコンピュータのCPUのようなものを作り、たとえば加算命令は4ビットで[[十進法|十進]]一桁の計算をするのみという「マイクロな命令」とし<ref group="注">[[#endnote_bunshun2010|「直訴と独学で作った世界初のCPU」]]では[[二進法]]のコンピュータと表現している。</ref>、プログラムで電卓の機能を実現する、というものであった<ref name="shima1987-43">[[#endnote_shima1987|『マイクロコンピュータの誕生』 p. 43]]</ref>(命令は単純にし、プログラム(ソフトウェア)側が複雑さを受け持つ、という方向転換は、むしろ後年のCISC→RISCに似ているとも言える)。
 
ホフが最初に示したスケッチでは、電卓における計算以外の機能(キーや表示の入出力制御など)をどう実現するかは示されておらず、前述のピン数の問題も考えられていなかった<ref name="shima1987-43-44">[[#endnote_shima1987|『マイクロコンピュータの誕生』 pp. 43-44]]</ref>
 
当初案ベースの仕様検討と並列して、ホフのアイディアを元にしたチップについても、電卓向けに必要な修正や他の部分を含む詳細な仕様を検討し、後者を進める方針がほぼ固まったが、契約がまとまらず、1969年12月20日に嶋は帰国した<ref name="shima1987-66">[[#endnote_shima1987|『マイクロコンピュータの誕生』 p. 66]]</ref>。
 
翌1970年の4月7日、単なる打ち合わせをする予定で、再度の渡米をする<ref name="shima1987-69">[[#endnote_shima1987|『マイクロコンピュータの誕生』 p. 69]]</ref>。本契約は同年の2月6日に結ばれており(この時、元の文面にあった「電子計算機」が「卓上計算機」に変わっていて、ビジコンの独占範囲が限定されていた<ref name="nhk1992-106">[[#endnote_nhk1992|『電子立国日本の自叙伝 (完結)』 p. 106]]</ref>)設計はインテル側が進めているものと思っていたが、結局嶋がほとんどの論理設計をすることになった。『マイクロコンピュータの誕生』には特に書かれていないが、[[文藝春秋]]に寄せた文章によれば「莫大な開発費を支払ったのに、何もやっていないとは何ごとかッ!」と激怒したという<ref name="bunshun2010">[[#endnote_bunshun2010|「直訴と独学で作った世界初のCPU」]]</ref>。
 
インテルの説明するところでは、プロセッサの論理設計のできる技術者を雇おうとしたが、アーキテクチャが4ビットだということがわかると、みんな辞退してしまったのだという<ref name="nhk1992-109-110">[[#endnote_nhk1992|『電子立国日本の自叙伝 (完結)』 pp. 109-110]]</ref>。当時既にメインフレームは32ビット、[[ミニコンピュータ]]でも8ビット~16ビットで、そういったコンピュータの設計者から見れば、4ビットでは「おもちゃ」と思われたためであった。
75行目:
しかし、2010年代から振り返って見た時(この段落の記述は2014年の書籍の邦訳版『インテル 世界で最も重要な会社の産業史』をベースとする)、おそらく最も単純かつ主だった理由は「その時のIntel社は、それどころではなかった」ということであろう。創業からそう長い時間がたっておらず、まだ決定的な商品を送り出すことができていなかったIntel社は、この4004の誕生と同じその頃、その「決定的な商品」となるべきDRAMチップ「1103」([[:en:Intel 1103]])についてもまた、開発中であった。そしてそのために、4004シリーズ(4001〜4004)の開発が「スカンクワークス」の仕事であったのに対し、「大多数の社員は会社存亡の対処に追われていた」<ref>『インテル 世界で最も重要な会社の産業史』 p. 190</ref>のである。単に、画期的な新製品の開発の難しい時期にさしかかっていた、というだけではなく、1103は実はその安定性に不安があった<ref>『インテル 世界で最も重要な会社の産業史』 p. 192</ref>。結果的には、「コアメモリは新しいチップに価格競争で負けました」(cores lose price war to new chip)という挑戦的な広告<ref group="注">http://www.computerhistory.org/revolution/digital-logic/12/280/1466</ref>とともに、成功したチップとして歴史に残ることとなったが、これはいくつかの幸運のおかげだった<ref>『インテル 世界で最も重要な会社の産業史』 p. 192</ref>。
 
渡米した嶋らに、パターン(論理ベースの回路図を元に、具体的にLSI上の配置を決定する仕事)設計者でプロジェクト・リーダーとなる[[フェデリコ・ファジン]]が紹介された。パターン設計者がいるということから論理設計は進んでいるものと思われたが<ref name="shima1987-69">[[#endnote_shima1987|『マイクロコンピュータの誕生』 p. 69]]</ref>、実はファジンは前日に雇われたばかりで、引き継ぎすらもされていなかった。つまり、論理設計はまだ全く進んでおらず、誰もやるものがいないという状態であったため、嶋が論理設計をおこなうことになった(ファジンは、論理設計も自分がやり、嶋はその補佐であったと主張している)<ref group="注">ここでは嶋の書籍などによる表現に従って書いているが、[[コンピュータ・アーキテクチャ#プロセッサのアーキテクチャと実装]]の分類では、嶋の作業は「論理設計及び回路設計」、ファジンの作業は「物理設計」に相当する。</ref>
 
CPU自身の論理設計の方式は[[ワイヤードロジック]]とした(プロセッサの制御方式にはワイヤードロジックと[[マイクロプログラム方式]]とがある)。2~3月でCPUの論理設計が完成し、周辺のチップの設計も進めた。9月からCPUのパターン設計に入り、嶋はファジンから学びながらパターンの設計やチェックの仕事にも参加した。目途が付いたため、10月中旬に市場調査のため東海岸とヨーロッパを視察してから帰国した。
 
明けて1971年、いわゆるマイコン開発支援システムと後に呼ばれるようになるようなものを作り、完成に備えた。4月、通関で一悶着あったものの、なんとかCPUを輸入でき、動作を確認した。世界初の[[マイクロプロセッサ]]の誕生であった。なお、一般に4004の「誕生日」とされているのは、同年11月のインテルによる一般発表の日である。また、インテルの資料では、CPUの4004の他、周辺のチップをセットとして「MCS-4」としており、MCSとはマイクロコンピュータシステムの略である。
 
当時は国内産業(この場合半導体メーカ)育成のために、LSIの輸入に際しては手続きが厳しかったにもかかわらず、通関審査を通す時に、送り状に「CPU」とあるがこれはなんだ、となった際に『誇らしい気持ちもあって「これが世界で初めてのワンチップ・コンピュータなんだ」とやっちゃった。だから事態が紛糾しちゃったってところがある』という(コンピュータといえば小さくても[[ミニコンピュータ]]というのが常識だった当時のことである)。4日間日参して説明し、通関審査をパスしたという<ref name="nhk1992-130-133">[[#endnote_nhk1992|『電子立国日本の自叙伝 (完結)』 pp. 130-133]]</ref>(ただし、これは嶋ではなく、当時のビジコン別社員<ref>NHKスペシャル DVD 電子立国 日本の自叙伝 第5回 8ミリ角のコンピューター</ref>)
 
4004に関しての特許は特に取らなかったが、後に、十進補正命令(電卓では特に重要であるため、ビジコン側の主張で4004に入った命令。電卓以外でも便利なことが多く、以後の多くのマイクロプロセッサに採用された)だけでも特許を取っておけば、莫大な収入になっただろう、と書いている<ref>『次世代マイクロプロセッサ』p. 67</ref>。