「和製漢語」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
39行目:
<!--和製漢語は、中国語のなかでは「漢語中的日語借詞」(日本語から借用した語彙)と定義されている。-「和製漢語」と外延が一致しないと思います。-->これら和製漢語の語彙は[[明治維新]]以後、中国人留学生らによって中国へ逆輸出された。「社会主義」「共産党」「幹部」などの常用語を筆頭に800語を超えるという。日本人が作った漢語がこのようにして中国語に大量移入した事実について、中国人のなかには、そのまま受け容れる者もいれば、強烈な抵抗を訴える者もあった{{要出典|date=2020年8月}}。
 
著名な受容派としては、[[梁啓超]]、[[孫文]]、[[魯迅]]、[[毛沢東]]が知られている。{{いつ範囲|date=2020年5月8日|現在}}の中国語に多くの和製漢語が使われるようになり、その端緒を開いたのは梁啓超であったといわれる。魯迅は自著で「万年筆」など和製漢語を多用したほか、日本語の「紹介」「写真」も頻繁に用いた。毛沢東は「[[整風運動]]」といった共産党の作風を改善する運動を喚起した際、文書の表現を豊かにするためには外国語から学ぶことが重要であると呼び掛けた。演説中で言及した学ぶ外国語の例は、「幹部」という和製漢語であった<ref>{{Harvnb|陳生保|1997|p=}} {{要ページ番号|date=2020年5月8日}}</ref>。そして「中華人民共和国」という国号の、「人民」「共和国」という語は、和製漢語である
 
翻訳家の[[厳復]]は、和製漢語の一部を受け入れて良いが、主に中国の古典の書物から新語に相応する訳語を見つけるべきと提唱した。たとえば、「経済学」を「計学」、「物理学」を「格致学」、「社会学」を「群学」、「形而上学」を「玄学」と主張した。また、当時、日本に留学していた留学生の[[彭文祖]]は強烈な反対派であった。彭は[[1915年]]『めくらがめくら馬に乗る新語論』(中国語名:<span lang="zh">盲人瞎馬新名詞</span>)という書籍のなかで、<span lang="zh">支那、取締、取消、引渡、手続、目的、宗旨、権利、義務、代価、法人、当事者、第三者、強制執行、親属、継承、文憑、盲従、同化、場合、衛生</span>など59個の新語を「きてれつな」と定義した。中国人がこのような新語を援用することは「恥知らずな行為だ」、日本からの新語の導入は「亡国滅族」だと罵った<ref><span lang="zh">[http://www.xschina.org/show.php?id=5475 {{zh|少一些净化、纯洁,多一些丰富、包容——从汉语外来语说起}}] - 高宁</span>(浙江省杭州第四中学副校長)、2005年9月25日。{{リンク切れ|date=2020年5月8日}}</ref>。