「三淵晴員」の版間の差分

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| 死没 = [[永禄]]13年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]([[1570年]][[4月6日]])
| 改名 = 尚員、晴員
| 別名 = 弥二郎
| 諡号 = 宗薫
| 戒名 =
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== 経歴 ==
明応9年([[1500年]])、[[和泉国|和泉]][[守護]][[細川元有]]の子として生まれる。親族で母方の叔父でもある[[征夷大将軍|将軍]]側近の[[三淵晴恒]]の養子となった。幕臣として12代将軍[[足利義晴]]に仕え、和泉国[[松崎城]]主、[[山城国]][[大法寺城]]主となる。天文16年([[1547年]])に義晴・[[足利義輝|義輝]]親子が[[管領]][[細川晴元]]と戦って敗北し、[[近江国]][[坂本 (大津市)|坂本]]に落ち延びるときもこれに従った。永禄8年([[1565年]])に13代将軍義輝が討たれた後はその弟・15代将軍[[足利義昭|義昭]]に仕えた。永禄13年([[1570年]])3月1日に死去。享年71
 
『言継卿記』天文元年11月11日条に「三淵弥二郎晴員」の署名がある文書が引用されている。また、[[本願寺証如]]の『[[天文日記]]』には天文6年3月4日条に登場した「三淵弥二郎」が1か月後の4月4日条には「三淵掃部頭」の名前で登場しているため、この間に掃部頭に任官したのが明らかとなる<ref>金子拓「室町幕府最末期の奉公衆三淵藤英」(初出:『東京大学史料編纂所研究紀要』12(2002年)/所収:金子『織田信長権力論』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-02925-4 P14-49.)2015年、P17.</ref>。当時、晴員は室町幕府から加賀国倉光保(倉光荘とも)を与えられていたため、加賀を実質支配していた本願寺と密接な関係を持っていたと推測され、『天文日記』などの本願寺関係の史料に度々登場している。また、山城国愛宕郡松崎郷にも5段(10石相当)を所領を持っていた他、複数の所領を有していた形跡がある。ただし、当時の生活は決して良くはなく、天文7年(1538年)9月には「不弁」を理由に暇を申請して幕府から拒絶されている(『大舘常興日記』天文7年9月3日条)<ref>『兼右卿記』永禄元年9月16日条</ref>の名前で登場している<ref>金子拓「室町幕府最末期の奉公衆三淵藤英」(初出:『東京大学史料編纂所研究紀要』12(2002年)/所収:金子『織田信長権力論』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-02925-4 P14-49.)2015年、P18-20.</ref>。
 
天文16年([[1547年]])に義晴・[[足利義輝|義輝]]親子が[[管領]][[細川晴元]]と戦って敗北し、[[近江国]][[坂本 (大津市)|坂本]]に落ち延びるときもこれに従った。
 
義晴の死後も義輝に仕えているが、義晴の死後に出家したらしく、以降は「掃部入道」<ref>『天文日記』天文20年4月5日条</ref>「伊賀入道」<ref>『兼右卿記』永禄元年9月16日条</ref>の名前で登場している<ref>金子拓「室町幕府最末期の奉公衆三淵藤英」(初出:『東京大学史料編纂所研究紀要』12(2002年)/所収:金子『織田信長権力論』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-02925-4 P14-49.)2015年、P17-18.</ref>。
 
永禄8年([[1565年]])に13代将軍義輝が討たれた後はその弟・15代将軍[[足利義昭|義昭]]に仕えた。永禄13年([[1570年]])3月1日に死去。享年71。
 
子の[[細川幽斎|細川藤孝]](幽斎)は兄・[[細川元常]]の養子となり、近世[[細川氏|細川家]]の祖となった。藤孝の生母は後妻の智慶院([[清原宣賢]]の娘)で、彼女は足利義晴から下げ渡され晴員の妻となったため、一説には藤孝は義晴の落胤であるという。