「山崎藩」の版間の差分

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しかし、3か月後には[[備前国]][[#児島藩|児島藩]]より[[池田恒元]]が3万石で入部。その後3代[[池田恒行|恒行]]が[[延宝]]6年(1678年)に夭折、[[末期養子]]もなかったため[[改易]]となった。
 
翌延宝7年(1679年)、[[大和国]][[郡山藩]]より[[本多忠英]]が1万石で入部し、以後本多氏が[[明治維新]]までこの地を治めた。忠英の長男[[本多忠良|忠良]]は、本家筋にあたる[[越後国]][[村上藩]]主[[本多忠孝]]が子をなさずに早世すると急養子としてこれを相続したため、次の[[本多忠方|忠方]]が2代藩主となったが、忠方は早世したため三の[[本多忠辰|忠辰]]がこれを継いだ。
 
8代[[本多忠鄰|忠鄰]]は[[藩校]]「思斎館」を開き、藩財政再建にも尽力した。しかし[[幕末]]に[[幕長戦争|第一次長州征伐]]に出兵して以後は藩財政が傾き、このため第二次長州征伐や[[鳥羽・伏見の戦い]]には戦費不足から出兵できないという事態に陥った。