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== 藩史 ==
[[戸沢氏]]は[[鎌倉時代]]以来、出羽国に勢力を伸ばした名門であったが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には出羽[[角館]]に割拠する小大名となっていた。しかし、「鬼九郎」と称された勇将・[[戸沢盛安]]の代になると着々と勢威を拡大した。しかし盛安は[[小田原征伐]]に参陣した直後に病に倒れ、24歳で死去した。その盛安の子・[[戸沢政盛]]は[[関ヶ原の戦い]]で東軍に属したため
[[慶安]]3年([[1650年]])に政盛が死去し、その跡を[[戸沢正誠]]が継いだ。正誠の時代は60年の長きにわたったため藩政が安定化し、城下町の完成、家臣の新規召し抱え、領内総検地、貢租体系の改正(天和の盛付)、地方知行から蔵米制への移行寛文8年([[1668年]])といった改革も多数行なわれて、新庄藩は最盛期を迎えた。米収入では[[元禄]]13年([[1700年]])には13万200余俵、人口では元禄16年([[1703年]])に5万8000余人に達する。しかし正誠の治世末期から放漫財政のために財政が悪化した。第3代藩主[[戸沢正庸]]はこのような事態を打開するために厳しい倹約令(生徳の条々)を敷き、さらに地方整備などの藩政改革に取り組んだが、あまり効果は見られなかった。そして[[宝暦]]・[[天明]]・[[天保]]とこの地方に飢饉が襲いかかるに及んで、年貢収納高は激減し、藩財政は破綻寸前となった。この頃の新庄藩の衰退を示すものとして、負債だけでも9万4000両(藩の3、4年分の収入)、人口では最盛期に6万近くを数えたが、この頃では4万5000人にまで落ち込んでいた。
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