「前田利常」の版間の差分

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[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])4月、家康が死の床に就いた際、枕元に来た利常に対して「お点前を殺すようにたびたび将軍(秀忠)に申し出たが、将軍はこれに同意せず、何らの手も打たなかった。それゆえ我らに対する恩義は少しも感じなくてよいが、将軍の厚恩を肝に銘じよ」と述べたという(『[[懐恵夜話]]』)。
 
[[寛永]]6年([[1629年]])、諱を利光から'''利常'''と改める。元和9年([[1623年]])には秀忠の嫡男で利常の義弟でもある[[徳川家光]]が[[征夷大将軍|将軍]]となっており、その[[偏諱]]でもある「光」の字を下(2文字目)に置くのをは家光から与えられたわけではないため避けたものと思われる。代わりに、嫡男の[[前田光高|利高]]がその字を家光から与えられて光高と改名している。
 
寛永8年([[1631年]])、[[大御所 (江戸時代)|大御所]]・秀忠の病中に金沢城を補修したり{{Refnest|group="注釈"|ただし修築に関しては同年夏の火災が理由で、実際は修築した箇所が以前より堅固になったことが問題とされた{{Sfn|若林|1986|p=5}}。}}、家臣の子弟で優秀な者を選んで[[小姓]]にしたり、大坂の役の際に勲功があったとして追賞したり、他国より船舶を盛んに購入したりした。このため、秀忠の病中に乗じて利常に対する謀反の嫌疑をかけられるも(「寛永の危機」){{Sfn|歴史群像|2007|p=353}}、自ら光高とともに江戸に下り、家老の[[横山長知]]の子の[[横山康玄|康玄]]の奔走もあって懸命に弁明した結果、からくも疑いを解くことができた{{Sfn|若林|1986|p=5}}。