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元亀2年(1571年)には義昭の命で再び豊後国に派遣され、再び悪化した大友氏と毛利氏の和平の仲介にあたっている<ref>金子、2015年、P70-71.</ref>。
 
晩年の晴通の動きについては不明な点が多いが、某年卯月十日付で一色式部少輔(藤長)宛の足利義昭御内書(国立国会図書館所蔵『古簡』二所収)について、[[金子拓]]が花押などからこれは義昭の書状ではなく、久我晴通の書状であると結論づけた。この書状の年代は記載されていないものの、文章の内容から天正2年(1574年)と確定できるもので、しかも義昭自身の書状でなかったとしてもその周辺から出されたのは確実と言えるものであった。つまり、金子説に従えば、元亀4年(1573年)7月の足利義昭の京都追放以降も近侍していたことになる<ref>金子、2015年、P61-63.</ref>。それまでの通説では義昭と朝廷の関係悪化から、義昭の追放に従った公家はいないと考えられていたため、金子の指摘は従来の通説をひっくり返すものとなった<ref>水野嶺「足利義昭の栄典・諸免許の授与」『戦国末期の足利将軍権力』吉川弘文館、2020年 ISBN 978-4-642-02962-9 P210.(初出:『国史学』二一一、2013年)</ref>。また、永禄1311(1570(1568年)に[[勅勘]]を受けて隠棲していた長男・[[久我通堅|通堅]]も合流していた可能性が高い<ref name=kaneko72>金子、2015年、P72-73.</ref>。
 
しかし、天正3年3月13日に久我晴通が病死し、4月6日には通堅も病死した。通堅は足利義昭が一時滞在していた堺で没していることから、晴通も京都に戻らずに死去したとみられている<ref name=kaneko72/>。