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}}'''久我 敦通'''(こが あつみち)は、[[室町時代]]後期から[[安土桃山時代]]の[[公卿]]。主に[[正親町天皇]](106代)・[[後陽成天皇]](107代)の二代にわたり朝廷に仕え、[[官位]]は[[正二位]][[大納言|権大納言]]まで昇った。父は[[久我通堅]]。母は佐々木氏。初名は'''久我吉通'''、'''久我季通'''。一字名は橘。号は円徳院。
 
== 経歴 ==
[[永禄]]9年([[1566年]])に叙爵。永禄11年(1568年)に父が典侍との密通で勅勘・解官の処分を受け、元亀4年(1573年)には祖父[[久我晴通]]が[[征夷大将軍|将軍]][[足利義昭]]の京都追放に同行してしまう。その後、[[天正]]3年([[1575年]])3月に祖父が、翌4月には父が客死してしまうが、[[織田信長]]の配慮で家督継承が認められて、11月には信長から所領の安堵を受けた<ref金子拓「久我晴通の生涯と室町幕府」(初出:『東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信』66(2014年)/所収:金子『織田信長権力論』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-02925-4)2015年、P72-73.></ref>。
[[永禄]]9年([[1566年]])に叙爵。以降累進し、[[天正]]6年([[1578年]])に[[従三位]]に達して[[公卿]]に列した。天正10年([[1582年]])に[[権大納言]]、天正15年([[1587年]])に[[従二位]]となる。文禄4年(1595年)より[[武家伝奏]]となり、朝廷と[[豊臣氏]]との取り次ぎに活躍。豊臣家からも信頼を受けてしばしば加増を受けている。しかし[[慶長]]4年([[1599年]])には[[勾当内侍]]との密通の風聞がたったことで子の通世とともに後陽成天皇の[[勅勘]]を被り、京都から追放されている。
 
[[永禄]]9年([[1566年]])に叙爵。以降累進し、[[天正]]6年([[1578年]])に[[従三位]]に達して[[公卿]]に列した。天正10年([[1582年]])に[[権大納言]]、天正15年([[1587年]])に[[従二位]]となる。文禄4年(1595年)より[[武家伝奏]]となり、朝廷と[[豊臣氏]]との取り次ぎに活躍。豊臣家からも信頼を受けてしばしば加増を受けている。しかし[[慶長]]4年([[1599年]])には[[勾当内侍]]との密通の風聞がたったことで子の通世とともに後陽成天皇の[[勅勘]]を被り、京都から追放されている。
 
==系譜==
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**男子:[[久世通式]](1593-1628) - [[久世家]]祖
 
==関連項目 脚注 ==
<references/>
 
== 関連項目 ==
* [[久我家]]
* [[久世家]]