「ペトロニウス・マクシムス」の版間の差分

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コンスタンス2世は母方の曾祖母エウフェミアの弟ウァレンティヌスの娘ファウスタ([[625年]]/[[630年]] - [[681年]]以降に没)と[[642年]]に結婚した。東ローマ皇帝の舅という地位を手に入れたウァレンティヌスは共同皇帝になろうとしたが、周囲の反対で失敗した。ウァレンティヌスは644年もしくは645年に娘婿でもあるコンスタンス2世から皇位を奪おうとしたが再び支持を得られずに失敗、失脚した。テオファネス([[758年]]/[[760年]] - [[817年]]/[[818年]])が記した年代記によれば、この二度目の試みがウァレンティヌスの命を奪った。
 
コンスタンス2世はファウスタとの間に男子3人([[コンスタンティノス4世]]、ヘラクレイオス、ティベリオス)を儲けた。この3人の肖像は[[ラヴェンナ]]にある[[サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂]]のコンスタンティノス4世のモザイク画に描かれている(中央のコンスタンティノス4世の向かって左側にヘラクレイオスとティベリオスがいる)。[[681年]]、コンスタンティノス4世は弟2人の共同皇帝という地位を剥奪し鼻を削いだ。
 
コンスタンティノス4世には皇妃アナスタシア([[650年]] - [[711年]]以降に没)との間に[[ユスティニアノス2世]]、ヘラクレイオスという2人の息子がいる。この内、ユスティニアノス2世は上述のは[[ラヴェンナ]]にある[[サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂]]のコンスタンティノス4世のモザイク画に描かれている(コンスタンティノス4世の弟2人の向かって左側に描かれている人物)。ヘラクレイオスは[[667年]]から[[685年]]の間(670年頃か)に生まれたが、父の死後の記録は無い。ユスティニアノス2世は最初の皇妃エウドキア([[695年]]以前に没)との間に一女アナスタシア([[685年]]生誕)を、2番目の皇妃テオドラ([[690年]] - 711年以降に没)との間に男子で共同皇帝ティベリオス([[705年]] - 711年)を儲けた。なお、テオドラはユスティニアノス2世の曾祖父コンスタンティノス3世の同母姉エウドキア・エピファニアの玄孫である。ユスティニアノス2世は暴政を行い、711年の反乱で殺された。ティベリオスもコンスタンティノープルで祖母アナスタシアの必死の助命嘆願にも関わらず、処刑された。ユスティニアノス・ティベリオス父子の死により、[[ヘラクレイオス王朝]]による東ローマ帝国支配は終わりを告げた。一方、ユスティニアノス2世の皇女でティベリオスの異母姉アナスタシアはブルガリア王テルヴェル([[675年]] - [[721年]])との間に息子テレリグ([[706年]] - [[777年]]、後にブルガリア王)を儲けている。
 
なお、コンスタンティノス4世の皇妃アナスタシアの父はヨアンネス・アタラリック([[600年]] - [[637年]]以降に没)という人物でコンスタンティノス4世の曾祖父ヘラクレイオス1世の庶子である。ヨアンネス・アタラリックの母はユスティニアヌス1世の従弟ゲルマヌスの子ゲルマヌス(550年 - [[605年]])の次女(585年生誕。名前不詳)でヘラクレイオス1世の側室となった女性である。ゲルマヌスの妻はレオンティアという女性である。