「細川澄之」の版間の差分
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延徳3年([[1491年]])[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]、生後2歳にして独身のため実子の無かった[[細川政元]](24、26、27、28代管領)の養子となり、細川京兆家の世子が代々称した'''聡明丸'''を幼名として名乗る。
[[文亀]]2年([[1502年]])9月、養父・政元から正式に嫡子(家督継承者)に指名され、[[丹波国]]守護職を与えられた。ところが政元と聡明丸(澄之)の両名は折り合いが悪かったようで、翌文亀3年([[1503年]])5月に政元は澄之を廃嫡
[[永正]]元年([[1504年]])、聡明丸は[[元服]]し、母方の従兄弟で[[室町幕府]]11代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義澄]]
永正3年([[1506年]])、養父・政元の命令に従って[[丹後国]]の[[一色義有]]討伐に赴いて賀悦を攻めたが、敵方と内通して落城を装い、兵を退いた。澄之自身、廃嫡されたことに立腹しない筈もなく、「養父・政元の命令に従った」というのは表向きの行動であった。
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永正4年([[1507年]])6月、政元の[[被官]]・[[香西元長]]・[[薬師寺長忠]]らが政元を暗殺する[[永正の錯乱]]が起こる。元長・長忠らは澄元の暗殺も計画したが、澄元は家宰の[[三好之長]]の機転によって[[近江国]]に逃亡した。澄之は元長らに迎えられて丹波から上洛し、政元の葬儀を催して、将軍・義澄から細川京兆家の後継者と認められた。事件は、澄之を新たな京兆家当主として擁立することで三好之長ら[[阿波国]]の勢力を排除したい元長・長忠ら京兆家被官が中心的な役割を果たしていたとされる。しかし、先に澄之が落城を装った賀悦城の[[石川直経]]が、一色を包囲中の[[赤沢朝経]]を首尾よく襲って敗死させるなどしており、事件以前から澄之も通謀し、周到に準備された計画であったことがわかる。理由はやはり前述の通り、廃嫡されたことに対する恨みが主なものであろう。
澄之・澄元の後に同じく政元の養子となっていた[[細川高国]]は、細川氏の一族をまとめ、[[高屋城]]の[[畠山氏]]らをも引き込んで、畿内近辺の勢力を糾合することに成功する。近江に逃れた澄元と三好之長は、遅れ馳せながら近江の[[国人]]を味方に引き入れ8月1日には京都に攻め上った。その戦功により澄之方の主将、[[一宮兵庫助]]が討たれると、敗戦が明らかになった澄之は[[遊初軒]]で自害した。享年19。元長や長忠らも戦死し、澄之政権は僅か40日で崩壊した
== 辞世の歌 ==
* 梓弓(あずさゆみ) 張りて心は 強けれど 引き手すくなき 身とぞ成りぬる。
== 脚注
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
* [[畿内・近国の戦国時代]]
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