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1814年5月9日、フリードリヒはフランスの新王[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]の命令でフランス軍を除隊させられ、{{仮リンク|アハウス城|de|Schloss Ahaus}}とパリ郊外{{仮リンク|オルメッソン=シュル=マルヌ|en|Ormesson-sur-Marne}}の邸宅を行き来する生活を送った。1825年には終身年金と引き換えに、ザルム=ザルム侯[[フロレンティン・ツー・ザルム=ザルム|フロレンティン]]にアハウスとボホルトのシュタンデスヘル領における自分の持ち分を譲った。それでも彼は(名目上の)ホールン公、リューズ、ペック及びボクステルの領主であり、1836年にはザルム=ザルム家にシュタンデスヘル領の持ち分を譲渡したことによる補償金およそ20万グルデンを受け取った。
 
1846年、フリードリヒは[[リンツ・アム・ライン]]に夏の居館として{{仮リンク|レネンベルク城 (シュロス)|ende|Schloss Rennenberg|label=レネンベルク城}}を建設した。
 
1811年、叔母アメリーの影響力のおかげで、[[ジョアシャン・ミュラ]]より{{仮リンク|王立両シチリア勲章|en|Royal Order of the Two-Sicilies}}大綬章を受ける。1814年ルイ18世より{{仮リンク|聖ルイ勲章|fr|Ordre royal et militaire de Saint-Louis}}騎士章を受章。1826年3月26日[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]より[[レジオンドヌール勲章]]司令官級勲章を受章。1842年1月4日、従兄のホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯[[カール (ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯)|カール]]より[[ホーエンツォレルン家勲章]]騎士章を受章。この他スペインの[[グランデ]]特権も保有した。[[ネーデルラント]]地方のホールン公領の相続者だったこともあり、1830年の[[ベルギー独立革命]]に際してはベルギー国王候補の1人に立てられた<ref>Arthur Kleinschmidt, S. 226, 243, 255, 257</ref>。
 
== 子女 ==
1815年1月11日、ボルドー男爵令嬢(女男爵)[[セシル=ロザリー・プレヴォー]]と結婚し、間に息子を1人もうけた。
*'''フリードリヒ5世'''・エスンスト・ヨーゼフ・アウグスト(1823年 - 1887年) - ザルム=キルブルク侯、1844年エレオノール・ド・ラ・トレモイユ公女<ref>トゥアール公[[シャルル=ブルターニュ=マリー・ド・ラ・トレモイユ]]の三女。フリードリヒ5世とは又従兄妹の関係。</ref>と結婚
**'''フリードリヒ6世'''・エルンスト・ルートヴィヒ・カール・ファレンティン・マリア(1845年 - 1905年) - ザルム=キルブルク侯、1883年ルイーズ・ル・グランと[[貴賤結婚]]し、妻と6人の子は1885年[[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国|ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ公国]]世襲貴族アイヒホーフ男爵(Freherr von Eichhof)の姓を受けた後、1917年プロイセン世襲貴族レネンベルク男爵(Freherr von Rennenberg)の姓を与えられ、後者を称した。