「呉楚七国の乱」の版間の差分

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呉王劉濞は[[紀元前154年]]に、呉にも領土削減の命令が届いたことをきっかけとして、反乱に踏み切った。これに楚・趙など六王が同調して反乱に加わった。呉も合わせて七国となったため、この反乱は後に「呉楚七国の乱」と呼ばれた。反乱側は、劉氏の和を乱す君側の奸臣[[鼂錯]]を討つとの名目を掲げた。
 
呉は南の[[南越国|南越]]の兵も借りて総勢70万ともいわれる兵を集め、また趙は北の[[匈奴]]と結び、乱を大規模なものとしていった。斉では膠西・膠東・菑川・済南など分割された国のほとんどが反乱に参加したものの、済北王[[劉志 (シ川王)|劉志]]は城壁の修復をすると偽り反乱には参加せず、さらにかつての斉都[[臨淄区|臨菑]](斉王[[劉将閭]])が反乱に加わらなかった。このため膠西王らはこれを攻めたが、臨菑が要害で落とすことができず足止めされたため、呉・楚軍のみが長安目指して進軍した。また、淮南王[[劉安]]も反乱に加わろうとしたが、これに反対する宰相[[張釈之]]の策で加わることができなかった。長安を目指す呉軍は14歳から62歳までの男子人民の根こそぎ徴兵を発令しており、兵の質は低かった。とはいえ、その兵力は数において中央政府側を凌駕するほどであり、また呉の動員は領地から上がった莫大な富に支えられていたため、景帝は強い危機感を持たざるを得なかった。
 
景帝は、かつて呉の宰相を務めたこともあり、直言で知られ、父の文帝も厚く信頼していた[[袁盎]]を呼び、呉国内の情報や助言を求めた。袁盎は「反乱軍は呉王の巨利に寄っただけ、また周辺も奸臣で反対しなかっただけで、この乱はすぐに収まります」と前置きした上で、人払いを願う。その後「反乱軍が鼂錯の誅殺を名目にしているのだから、鼂錯を殺すべきです」と進言した。景帝は驚き悩んだが、結局鼂錯を処刑した<ref>袁盎と鼂錯は政敵の間柄であり、劉氏の和についてなど政策でもあらゆる点で反対だったため、極めて仲が悪かった。実際に鼂錯は呉王の蜂起を理由に袁盎を殺そうとしたものの、景帝の言により隠居させるに留まっていた。袁盎は機を逆に利用し、鼂錯を殺したのである。ただし、鼂錯の殺害も反乱への対応の一環でしかなかったかも知れない。</ref>。袁盎は呉王の甥と共に呉軍に和平の使者として出向いたが、既に天下の半分が加勢した勢いもあって呉王は奢り、鼂錯の排除も名目に過ぎず、反乱軍が矛を収めるはずもなかった。ただ燕など、中立を維持したり中央に就いたりした諸侯も、領土削減政策には不満を持っていたので、反乱の拡大をこれで食い止めたともいえる。袁盎は呉王からの将軍として厚遇するとの話を蹴って囚われ、かつて恩を与えた呉の司馬の手引きで脱出し、景帝に報告した。