「ボスニア王国」の版間の差分

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|元首等年代始1 =1377年
|元首等年代終1 =1391年
|元首等氏名2 =[[チェティエパン・トマシェヴィチ]]
|元首等年代始2 =1461年
|元首等年代終2 =1463年
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=== 滅亡 ===
[[1461年]]の{{仮リンク|[[チェティエパン・トマシェヴィチ|en|Stephen Tomašević of Bosnia}}]]の戴冠式には、[[教皇|ローマ教皇]][[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]が授与した王冠が使用される<ref>唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、116-117頁</ref>。ピウス2世からの使節に勇気づけられたトマシェヴィチはセルビア王位継承権を有する妻から権利を相続してセルビアの王位を請求し、オスマン帝国への貢納を拒絶した<ref name="kro155">アンドレ・クロー『メフメト2世 トルコの征服王』(岩永博、佐藤夏生、井上裕子、新川雅子訳, りぶらりあ選書, 法政大学出版局, 1998年6月)、155頁</ref>。[[1463年]]5月にオスマン皇帝[[メフメト2世]]は、ボスニアがハンガリーと同盟を結んだことを理由にボスニアへの遠征を実施した<ref>唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、117-118頁</ref>。遠征の開始から数週間後にボスニアはオスマン帝国によって征服され<ref name="df42">ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、42頁</ref>、首都の[[ヤイツェ]]を放棄して[[クリュチ]]に逃亡したトマシェヴィチは城塞に立て籠もって間もなく降伏した<ref name="kro155"/>。オスマン軍に捕らえられたトマシェヴィチは斬首され、ボスニア王国は滅亡する<ref name="kri74"/><ref name="df42"/>。
 
ボスニア征服の完了後にオスマン帝国は軍を引き上げたため、ボスニアの一部はハンガリーによって占領される<ref name="df42"/>。しかし、ハンガリーの支配は長く続かず、[[1465年]]末までにボスニアの大部分がオスマン帝国の支配下に入った<ref name="df42"/>。首都ヤイツェはハンガリーの支配下に置かれ、[[1527年]]/[[1528年|28年]]までオスマン帝国からの独立を維持した。
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| style="text-align:center;"|第10代
| style="text-align:center;"|[[Image:Stjepan Tomašević cropped.jpg|150px]]
| style="text-align:center;"|[[ステファィエパン・トマシェヴィチ]]
| style="text-align:center;"|[[1438年]]
| style="text-align:center;"|1461年 - [[1463年]]<br>(セルビア公、1458年-1459年)