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'''ジャン=バティスト・カリエ '''(Jean-Baptiste Carrier、[[1756年]][[3月16日]] – [[1794年]][[12月16日]])は、[[フランス]]の革命政治家である。「[[ナント]]の溺死刑([[共和国の結婚]])」で有名。
 
[[オーリヤック]]出身。[[公証人 (フランス)|公証人]]。[[フランス革命]]が勃発すると熱心に支持して、1792年9月に[[国民公会]]議員に当選。[[山岳派]]に属した。国王裁判では死刑票を入れ、即時執行を主張。[[革命裁判所 (フランス革命)|革命裁判所]]の創設にも尽力した。ジロンド派追放後、[[派遣議員]]となって最初ノルマンディー地方に派遣され、次に[[ヴァンデの反乱]]で脅かされていたナント市に派遣された。反乱軍が壊滅し数千人が捕虜となりナントに連行されると[[ロワール川]]へ廃船を浮かべそこに詰め込んで溺死させた。そのことを溺死刑は1793年11月から公安委員会に複数回報告されていたが、黙認された。1794年2月、[[マクシミリアン・ロベスピエール]]のお気に入りマルク・アントワーヌ・ジュリアンがナントを訪れた際、カリエから批判され罷免激しい恫喝を受けたことをロベスピエールに訴えたことから、カリエはナントの派遣議員を解任となり、パリへ戻る。

[[テルミドールのクーデター]]で活躍し、ロベスピエールの後継者を自認したが、すぐに失脚。国民公会の追及を受け、大量虐殺で告発されて[[パリ]]のグレーヴ広場で処刑された。