「墨俣川の戦い」の版間の差分

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== 経過 ==
平氏は前年の[[治承]]4年([[1180年]])10月の[[富士川の戦い]]で[[源頼朝]]・甲斐源氏連合軍に敗れたが、再度、頼朝軍東国勢力を追討するため、治承5年([[1181年]])4月、[[平維盛]] 、[[平重衡]]を将とする軍を[[東国]]へ派遣した。それに対して、源行家は軍勢が墨俣川東岸に陣を敷き待ちかまえた。行家は頼朝の麾下には入らず独立勢力を目指し三河・尾張国で勢力圏を築いており、鎌倉の頼朝へ恩を売るために平氏軍を待ち受ける役割を負ったとされている。両軍は、墨俣川を挟んで対峙したが、行家軍は夜間の奇襲を企てて渡河した。しかし、平氏軍が濡れている兵士が敵であることに気付いたため、行家の奇襲はすぐに見破られ、行家軍は大敗した。この時、行家の軍に加わっていた[[義円|源義円]](頼朝の異母弟、源義経の同母兄)、[[山田重満|源重光]](泉重光、山田重満とも。[[尾張源氏]])、[[源頼元]]、[[源頼康|頼康]](ともに[[大和源氏]])といった源氏一門の諸将が戦死、行家の次男[[源行頼|行頼]]が敵軍の捕虜となっている。行家は矢作川を突破された後に敗走した。
 
行家勢はその後、熱田に篭ったがそこも打ち破られて[[三河国|三河]]の[[矢作川]]まで撤退したが、平氏軍はさらに追撃した。しかし、東から源氏の大軍が来るという噂が流れたため、平氏はそれ以上進撃せずに撤退した。
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平氏があくまで都を中心とした専守防衛体制を堅持したことにより、平氏の[[西国]]支配、[[源氏]]の[[東国]]支配、[[奥州藤原氏]]の東北支配という勢力分布が一層明確なものとなった。また壊滅的な打撃を蒙って逃亡した行家は頼朝方へ屈する形となった。しかし挙兵後より不和となっていた二人はほどなく所領をめぐって対立し、行家は[[源義仲]]の元へと走ることとなった。
一方平氏は奥州藤原氏や越後の城氏と提携して東国包囲網を築く方策を検討するようになる(『[[玉葉]]』)。
 
なお、源平墨俣川古戦場は、大垣市指定史跡となっている<ref>{{Cite web |date=2013-03-01 |url=http://www.city.ogaki.lg.jp/cmsfiles/contents/0000012/12659/cultural_properties.pdf |title=指定文化財一覧表 |format=PDF |publisher=大垣市 |accessdate=2013-05-15}}</ref>。