「墨俣川の戦い」の版間の差分

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== 経過 ==
平氏は前年の[[治承]]4年([[1180年]])10月の[[富士川の戦い]]で[[源頼朝]]・甲斐源氏連合軍に敗れた。その後反平氏の動きは拡大し、美濃、近江などでの反乱の挙兵が相次いだ([[近江攻防]]、[[美濃源氏の挙兵]])。それに対して福原からの還都、総官の制度構築などの対策を重ねた平氏は畿内の反乱や反平氏の動きを取った南都寺社勢力の制圧に成功し、美濃の反乱も制圧した。さらに源行家が進出したとの報を得て尾張への進撃を前提に兵糧や軍船水夫を徴収の支度を進め平宗盛を将とする出陣が予定されていたが、閏2月、平清盛が死去し出撃は一時中断される。しかし治承5年([[1181年]])閏2月15日平氏は、[[平重衡]]を将とする軍を尾張へ派遣した。それに対して、源行家は軍勢が墨俣川東岸に陣を敷き待ちかまえた。行家は頼朝の麾下には入らず独立勢力して三河・尾張国で勢力圏を築いていた。
3月1510日両軍は、墨俣川を挟んで対峙した。行家軍は夜間の奇襲を企てて渡河した。しかし、平氏軍が濡れている兵士が敵であることに気付いたため、行家の奇襲はすぐに見破られ、行家軍は大敗した。この時、行家の軍に加わっていた[[義円|源義円]](頼朝の異母弟、源義経の同母兄)、[[山田重満|源重光]](泉重光、山田重満とも。[[尾張源氏]])、[[源頼元]]、[[源頼康|頼康]](ともに[[大和源氏]])といった源氏一門の諸将が戦死、行家の次男[[源行頼|行頼]]が敵軍の捕虜となっている。
 
行家勢はその後、熱田に篭ったがそこも打ち破られて[[三河国|三河]]の[[矢作川]]まで撤退し、行家はそのまま敗走した。また平氏はそれ以上進撃せずに撤退した。