「レオノーラ・キャリントン」の版間の差分
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== 第二次大戦 - 別離 ==
だが、[[1939年]]9月にドイツ軍が[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]したことを受けて、フランスはドイツに[[宣戦布告]]。[[ドイツ人]]のエルンストは敵性外国人としてフランス当局に逮捕され、[[ラルジャンティエール]]の刑務所に収監された。エリュアールは{{仮リンク|アルベール・サロー|fr|Albert Sarraut|label=}}内相に「マックス・エルンストは20年前に二度と祖国の土を踏むことはないと決意し、フランスに移住しました。彼は[[サロン・ド・パリ|サロン]]に出品した最初のドイツ人です」と、エルンストの釈放を求める手紙を書き、この結果、エルンストは数週間で保釈された<ref>{{Cite news|title=Une lettre d'Eluard|url=https://www.lemonde.fr/archives/article/1997/05/14/une-lettre-d-eluard_3762793_1819218.html|date=1997-05-14|accessdate=2019-10-06|language=fr|newspaper=Le Monde}}</ref>。だが、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|ナチス・ドイツがフランスに侵攻]]すると、再び今度は[[ゲシュタポ]]に逮捕され、[[ブーシュ=デュ=ローヌ県]][[エクス=アン=プロヴァンス]]の[[レ・ミル収容所]]に送られた<ref name=":4" /><ref name=":7" />。彼は今やドイツにとっても「国家の敵」であった。彼の作品《美しき女庭師
一方、愛するエルンストを失ったキャリントンは深い絶望に陥り、しかも、彼女もまた外国人であったために、英国人の友人の助力によりスペインに亡命した。だが、[[マドリード]]に着いたとき、強い[[不安]]や[[被害妄想]]に襲われ、[[カンタブリア州]][[サンタンデール (スペイン)|サンタンデール]]の精神病院に収容された。彼女は後にこのときの症状や治療について『ダウン・ビロウ』を著し、「マックスが収容所に連れて行かれたとき、苦しみのあまり[[緊張病]](カタトニー)のような状態になって、もう、尋常な世界ではなく別の場所にいて苦しんでいるような感じであった」と回想している。乳母メアリー・カヴァナが彼女を英国に連れ帰るために渡西したのはこのときのことだが、キャリントンは退院すると、スペインから[[モロッコ]]、さらに[[リスボン]]に逃亡し、同地の[[メキシコ大使館]]に向かった。かつてパリでピカソを介して知り合ったメキシコ人外交官{{仮リンク|レナト・ルデュク|es|Renato Leduc}}に会うためであった。1941年にルデュクは彼女を「外交官の妻として」米国に亡命させるために結婚した<ref name=":8">{{Cite web|title=How Artist Leonora Carrington Transformed Art into Activism|url=https://www.thoughtco.com/leonora-carrington-artist-biography-4587977|website=ThoughtCo|accessdate=2019-10-06|language=en|publisher=|author=Amanda Prahl|date=2019-07-03}}</ref>。
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