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* 西武ライオンズ<br />埼玉西武ライオンズ (2004 - 2013)
}}
'''渡辺 久信'''(わたなべ ひさのぶ、[[1965年]][[8月2日]] - )は、[[群馬県]][[桐生市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]]、右投右打)・[[プロ野球監督|監督]]・[[プロ野球コーチ|コーチ]]

[[2019年]]より[[埼玉西武ライオンズ]]球団本部[[ゼネラルマネージャー]](GM)。[[愛称]]は「'''ナベ'''」「'''ナベQ'''」<ref>「ナベQ」は、[[渡辺智男]]の西武入団以降、[[活字]][[メディア (媒体)|メディア]]で「渡辺久」と表記される機会が増えたことから、「久」の字の[[音読み]]を[[アルファベット]]にしたもの。ただし、同姓の選手が居た場合でも、[[ユニフォーム]]の背中のネームは「エッチ渡辺 (H.WATANABE)」に見えることを嫌い頭文字は入れなかった。</ref>。現在は[[埼玉西武ライオンズ]]球団本部ゼネラルマネジャー(GM)を務める
 
== 経歴 ==
=== プロ入り前 ===
[[群馬県立前橋工業高等学校|前橋工業高校]]時代から速球派の大型投手と期待された。中学時代から140km/hに近い[[直球|ストレート]]を投げており、県の高校野球界でも注目の的だったが、自身は[[群馬県立桐生高等学校|桐生高校]]を志望していた。当時の桐生高校は、[[阿久沢毅]]・[[木暮洋]]のコンビで[[高校野球#全国大会|甲子園]]を席巻した直後であり、桐生高校側としても次代のエースとしての期待を込めて、受け入れ態勢を準備しており、専属の[[家庭教師]]をつけて[[入学試験|受験]]勉強を開始したが、生来の勉強嫌いもあって3日で受験を断念し、結局前橋工業高校に進学した<ref>[[AERA]] 2000年5月15日号。</ref>。優勝候補筆頭として出場、高校3年の時に選手権大会群馬大会では、[[群馬県立太田工業高等学校|太田工業高校]]との決勝で最終回に押し出し[[四球|フォアボール]]で[[サヨナラゲーム|サヨナラ負け]]を喫した。渡辺が甲子園に出場したのは1年生の時で[[1981年]]の夏に行われた[[第63回全国高等学校野球選手権大会|第63回全国選手権]]のみで、この時も準優勝した[[京都学園高等学校|京都商業高校]]に初戦でサヨナラ負けを喫している
 
高校3年次の群馬大会では、[[群馬県立太田工業高等学校|太田工業高校]]との決勝で最終回に押し出し[[四球|フォアボール]]で[[サヨナラゲーム|サヨナラ負け]]を喫した。渡辺が甲子園に出場したのは、1年生だった[[1981年]]の[[第63回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]のみで、準優勝した[[京都学園高等学校|京都商業高校]]に初戦でサヨナラ負けを喫している。
 
[[1983年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1983年度プロ野球ドラフト会議]]にて[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]は[[高野光]]を1位指名するも抽選外れ、ハズレ1位<ref>[[プロ野球ドラフト会議]]において、複数の球団が同じ選手を1位指名した場合、抽選を行う。その際、抽選に外れた球団が他の選手を1位指名することを「ハズレ1位」という。</ref>」渡辺が指名され入団した<ref>当初、2位指名予定の[[辻発彦]]を繰り上げる方向だったが、出席していた[[広岡達朗]]監督が「まだ渡辺が残っている」と関係者に伝えて指摘し、急遽指名されたという。</ref>、入団
 
=== 現役時代 ===
==== 日本プロ野球 (NPB)西武時代 ====
1年目から一軍に定着し、快速球と[[フォークボール|フォーク]]を武器に3年目の{{by|1986年}}は[[最多勝利|最多勝]]、[[最多奪三振 (日本プロ野球)|最多奪三振]]の二冠となった。{{by|1988年}}、{{by|1990年}}も最多勝となるなど、[[東尾修]]・[[工藤公康]]・[[郭泰源]]・[[松沼博久]]らとともに西武黄金時代の柱としてチームを支えた。
 
{{by|1988年}}、{{by|1990年}}も最多勝を獲得するなど、[[東尾修]]・[[工藤公康]]・[[郭泰源]]・[[松沼博久]]らとともに西武黄金時代の柱としてチームを支えた。
{{by|1989年}}10月12日、熾烈な優勝争いの最後の天王山の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]との[[ダブルヘッダー]]第1試合で途中登板したものの、[[ラルフ・ブライアント]]に勝ち越しソロ[[本塁打]]を打たれた。結局西武は同日のダブルヘッダーを2試合とも落とし、同年の優勝を逃す要因となった([[10.19]]の項も参照)。渡辺は引退の記者会見で、最も心に残る場面として「後悔しないように一番自信があった直球で勝負を挑んでモノの見事に打たれた」と、この場面をとりあげている。
 
{{by|1989年}}10月12日、熾烈な優勝争いの最後の天王山となった[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]との[[ダブルヘッダー]]第1試合で途中登板したものの、[[ラルフ・ブライアント]]に勝ち越しソロ[[本塁打]]を打たれた。結局西武は同日のダブルヘッダーを2試合とも落とし、同年の優勝を逃す要因となった([[10.19]]の項も参照)。渡辺は引退の記者会見で、最も心に残る場面として「後悔しないように一番自信があった直球で勝負を挑んでモノの見事に打たれた」と、この場面をとりあげている。
{{by|1990年}}5月9日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦に先発した渡辺は9回までノーヒットピッチング、だが西武打線も[[柴田保光]]投手の前に無得点に抑えられ延長戦になった。10回もノーヒットを続けたが11回ついに[[小川浩一]]にヒットを許し、[[ノーヒットノーラン]]達成はならなかった。なお、その試合では12回表に西武が先制、渡辺は11回無失点で勝利投手になった。[[1990年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも[[1988年の日本シリーズ]]に続いて二回連続の開幕投手を努め、チーム4連勝の勢いを付ける完封勝利を記録した。
 
{{by|1990年}}5月9日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦に先発した渡辺は9回までノーヒットピッチングった西武打線も[[柴田保光]]投手の前に無得点に抑えられ延長戦なった。10回もノーヒットを続けたが11回ついに[[小川浩一]]にヒットを許し、[[ノーヒットノーラン]]達成はならなかった。なお、その試合は12回表に西武が先制、渡辺は11回無失点で勝利投手になった。[[1990年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも[[1988年の日本シリーズ]]に続いて二回連続の開幕投手を努め、チーム4連勝の勢いを付ける完封勝利を記録した。
{{by|1991年}}、前年まで二年連続シーズンワースト被安打や30本を超える被本塁打を大幅に減少させることに成功したが、勝負所で打たれることが目立ち自身初の防御率4点台を記録(リーグワースト2位)勝敗も初めてシーズン負け越しを記録したが、[[1991年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第3戦に登板し二年連続初登板完封勝利を記録、チーム日本一に貢献した。
 
{{by|1991年}}、前年まで二年連続シーズンワーストだった被安打や30本を超える被本塁打を大幅に減少させることに成功したが、勝負どころで打たれることが目立ち自身初の防御率4点台を記録(リーグワースト2位)し、勝敗も初めてシーズン負け越しを記録したが、[[1991年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第3戦に登板し、2年連続初登板完封勝利を記録チーム日本一に貢献した。
{{by|1992年}}10月10日の対日本ハム戦では打席に入り、左前安打を記録した。当時は[[セ・パ交流戦|交流戦]]がなく、これは日本シリーズを見据えた采配であり、同試合では同僚の[[潮崎哲也]]、[[石井丈裕]]も打席に立ったが、三振を喫しなかったのは渡辺だけであった。その後パ・リーグでの投手の安打は{{by|2001年}}9月29日で[[ジェレミー・パウエル]](同じく日本シリーズを見据えて送りバントをしたがそれが内野安打となった)まで、約9年間記録されなかった([[松坂大輔]]が2000年に安打を記録しているが代打での記録であり、投手として記録したものではない)。
 
{{by|1992年}}10月10日の日本ハム戦では打席に入り、左前安打を記録した。当時は[[セ・パ交流戦|交流戦]]がなく、これは日本シリーズを見据えた采配であり、同試合では同僚の[[潮崎哲也]]、[[石井丈裕]]も打席に立ったが、三振を喫しなかったのは渡辺だけであった。その後パ・リーグでの投手の安打は{{by|2001年}}9月29日で[[ジェレミー・パウエル]](同じく日本シリーズを見据えて送りバントをしたがそれが内野安打となった)まで、約9年間記録されなかった([[松坂大輔]]が2000年に安打を記録しているが代打での記録であり、投手として記録したものではない)。
{{by|1993年}}、シーズンでは自己ワーストの14敗を記録(この年のリーグワースト2位の敗戦数)。[[1993年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で第3戦で勝利投手になったが、第7戦で敗戦投手となりチームも日本一を逃した。なお自身のシリーズ敗戦投手は[[1986年の日本シリーズ]]以来の11試合ぶりの敗戦投手(リリーフ登板)で先発登板での敗戦投手はこれが最初で最後だった。
 
{{by|19941993年}}、シーズンは90年代では唯一勝ち越したシーズンで、身最後己ワースト規定投球回14敗クリアした記録(このだった。チのリムはシグワズン4連覇しスト2位の敗戦数)。[[19941993年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では2年ぶり第3戦で勝利投手開幕なったが、第7戦で敗戦投手となり日本一努め逃した。なお自身最後のシリーズ勝利敗戦投手となったがチーム[[1986年の日本一を逃しシリーズ]]以来の11試合ぶりの敗戦投手(リリーフ登板)で先発登板での敗戦投手はこれが最初で最後だった。
 
{{by|1994年}}、シーズンは90年代では唯一勝ち越し、自身最後の規定投球回をクリアしたシーズンとなった。チームはシーズン4連覇し[[1994年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では2年ぶりに開幕投手を務め、自身最後のシリーズ勝利投手となったが、チームは日本一を逃した。
{{by|1995年}}にはかつてのチームメイトだった[[東尾修]]が監督に就任。シーズン初登板こそ先発で延長10回途中まで無失点の好投はしたが、それ以降先発で4試合全て負けて4連敗。次の登板で先発勝利したが、内容の悪さから中継ぎに降格。リリーフ初登板で失点し、その試合を最後に一軍定着後としては初のシーズンの大半を二軍で過ごす事になった。シーズン終盤に一軍に昇格し抑えを経験。先発では7試合1勝4敗防御率6.43が、復帰後抑えに回ってからは11試合2勝0敗5S防御率1.65の好成績だったが本人の先発思考が強かった為、次の年も先発投手としてシーズンを迎えた。
 
{{by|1995年}}にはかつてのチームメイトだった[[東尾修]]が監督に就任し、シーズン初登板こそ先発で延長10回途中まで無失点の好投はしたが、それ以降先発で4試合全て負けて4連敗となった。次の登板で先発勝利したが、内容の悪さから中継ぎに降格となり、リリーフ初登板で失点し、その試合を最後に一軍定着後としては初のシーズンの大半を二軍で過ごす事になった。シーズン終盤に一軍に昇格し抑えを経験した。先発では7試合1勝4敗防御率6.43が、復帰後抑えに回ってからは11試合2勝0敗5S防御率1.65の好成績だったが本人の先発思考が強かった為、次の年も先発投手としてシーズンを迎えた。
{{by|1996年}}6月11日、対[[オリックス・バファローズ|オリックスブルーウェーブ]]戦でノーヒットノーランを達成。前回の未達成から6年越しの記録だった。シーズン成績では開幕からローテーションに入りチームが下位に低迷する中ノーヒットノーランを記録した6月まで西口文也の9勝に次ぐ6勝(4敗)と奮闘していたが、6月末に敗戦投手になるとそこから8月末までに5連敗を記録し、チームが若手主体に切り替えたことにより二軍降格しそのままシーズンを終える形になった。
 
{{by|1996年}}6月11日、対[[オリックス・バファローズ|オリックスブルーウェーブ]]戦でノーヒットノーランを達成。前回の未達成から6年越の記録だった。シーズン成績では開幕からローテーションに入りチームが下位に低迷する中ノーヒットノーランを記録した6月まで西口文也の9勝に次ぐ6勝(4敗)と奮闘していたが、6月末に敗戦投手になるとそこから8月末まで5連敗を記録し、チームが若手主体に切り替えたことにより二軍降格しそのままシーズンを終える形になった。
{{by|1997年}}には主に谷間の先発を務めたがプロ入り初の一軍未勝利に終わり、同年の[[1997年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも第3戦の8回にリリーフ登板(これが自身最後の日本シリーズ登板)したが、[[伊東勤]]が出した変化球のサインを見間違えストレートを投げた結果、先頭バッターの[[古田敦也]]に勝ち越しホームランを打たれ、さらに投手の[[高津臣吾]]に適時打を打たれるなど不本意な結果となった。同年のシーズンオフにはチームの若返りを目指す球団方針によって[[戦力外通告]]を受け、複数の球団による勧誘の中から「『野村[[ID野球]]』を学んでみたい」との思いから<ref>『寛容力』 p.78</ref>[[野村克也]]が監督を務める[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]へ移籍。
 
{{by|1997年}}は主に谷間の先発を務めたがプロ入り初の一軍未勝利に終わり、同年の[[1997年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも第3戦の8回にリリーフ登板(これが自身最後の日本シリーズ登板)したが、[[伊東勤]]が出した変化球のサインを見間違えストレートを投げた結果、先頭バッターの[[古田敦也]]に勝ち越しホームランを打たれ、さらに投手の[[高津臣吾]]に適時打を打たれるなど不本意な結果となった。同年のシーズンオフにはチームの若返りを目指す球団方針によって[[戦力外通告]]を受け、複数の球団による勧誘の中から「『野村[[ID野球]]』を学んでみたい」との思いから<ref>『寛容力』 p.78</ref>[[野村克也]]が監督を務める[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]へ移籍
1990年に最多勝を獲得して以降は各年の日本シリーズこそ好成績(日本シリーズ通算成績20試合=先発12試合81回2/3投げ7勝3敗防御率3.20)を記録したが、シーズン成績は下降しだし、それまで7シーズン一度も負け越しが無く二桁勝利も4度記録したが、逆にこの年以降西武在籍7シーズン勝ち越せたのが1度で二桁勝利も1度しかできなかった。
 
同年オフ、チームの若返りを目指す球団方針によって[[戦力外通告]]を受け、「『野村[[ID野球]]』を学んでみたい」との思いから<ref>『寛容力』 p.78</ref>[[野村克也]]が監督を務める[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]へ移籍。
{{by|1998年}}は『野村再生工場』とも謳われた野村の下で復活を期待されたが、速球にこだわるが故にその速球を痛打される機会が目立った。同年は5月20日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]4回戦で3年ぶりの完投勝利を挙げた(自身の連敗は7でストップ)がこの1勝に終わり19試合の登板で1勝5敗、防御率4.23と成績が上向くことはなく、同年のシーズンオフに再び戦力外通告を受けた(尚完投勝利を挙げたボールは最後にボールを取った[[ドゥエイン・ホージー]]がスタンドに投げ入れてしまった。
 
==== 台湾大聯盟 (TML)ヤクルト時代 ====
{{by|1998年}}は『野村再生工場』とも謳われた野村下で復活を期待されたが、速球にこだわるが故にその速球を痛打される機会が目立った。同年は5月20日の[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]4回戦で3年ぶりの完投勝利を挙げた(自身の連敗は7でストップ)がこの1勝に終わり19試合の登板で1勝5敗、防御率4.23と成績が上向くことはなく、同年シーズンオフに再び戦力外通告を受けた(尚完投勝利を挙げたボールは最後にボールを取った[[ドゥエイン・ホージー]]がスタンドに投げ入れてしま成績で終わった。
ヤクルトにおける戦力外通告をもって現役引退を決断し、テレビ朝日・テレビ埼玉・文化放送野球解説者としての専属契約を交わしたものの断念<ref>『寛容力』 p.72 - 74</ref>、西武時代の先輩であり、渡辺が戦力外通告を受けた当時の西武監督でもあった東尾の勧めによって、指導者の勉強のため急遽[[台湾]]に渡ることとなり、[[台湾職業棒球大聯盟|台湾大聯盟]]・[[嘉南勇士]]の投手コーチに就任する。しかし、言葉による意思疎通が困難であったことから当時台湾大聯盟で技術顧問を務めていた郭泰源に通訳を手配してくれるよう要請したところ「言葉が通じないのであれば(渡辺が)自ら投げて身をもって教えればよい」とアドバイスを受けて急遽選手兼任となり、現役に復帰<ref>『寛容力』 p.90</ref>。なお言葉については中国語の家庭教師を雇って学んだ結果、1年ほどで日常会話程度はこなせるようになり、その後はヒーローインタビューに中国語で答えることもあった<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20150507/lio15050711000001-n2.html 【私の失敗(3)】渡辺久信、通訳不在にがく然…指導できない] - サンケイスポーツ・2015年5月7日</ref>。
 
同年オフ、再び戦力外通告を受けた。
指導という名目もあり、日本時代のような速球中心のプライドがプレイの邪魔をしなかった。ヤクルト時代に野村から覚えるように言われていた、緩いカーブやシュート等緩急を駆使した投球の結果、入団1年目から18勝で最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得するなど台湾球界を代表するエースとして活躍した。また、西武在籍当時の同僚であった郭・後に台湾に来た石井丈裕らとともに台湾球界の発展に努め、日本で活躍の場に恵まれない選手にも道を開いた。中国語が堪能になるにつれて、渡辺を慕う選手が自宅へ招待するようになる。[[ニワトリ|鶏]]や[[ブタ|豚]]だと思って食べていた肉料理が、実は[[田|田圃]]に棲む体長40~50cmの[[ノネズミ|野ネズミ]]だと聞かされて、噎せ返りそうになったこともあった<ref>台湾ではポピュラーな食材である。</ref>。渡辺も台湾の選手やコーチと地酒を飲み、料理を頬張りながら、台湾の文化や慣習に馴染もうと努めた。休日には一人でバスや電車に乗り、知らない町を散策。時には原付バイクで行く事もあった。夕暮れ時には屋台や食堂にふらりと立ち寄り、居合わせたファンと野球談義に花を咲かせた事もあった<ref>[[赤坂英一]]「プロ野球 二軍監督ー男たちの誇り」2011年4月25日、[[講談社]]、ISBN 4062167875、p71。</ref>。{{by|2001年}}シーズン途中に現役を引退し、コーチ業に専念。この結果、日本球界において、有名選手あるいは所属球団への貢献度の高い選手の現役引退に際して恒例となっている[[引退試合]]が行われることなく<ref>[[嘉南勇士]]における現役引退時は不明。</ref>現役を引退することとなった。台湾での経験について、渡辺は自著『寛容力』の冒頭で「指導者としての原点は台湾での3年間にある」と語っている。
 
==== 台湾時代 ====
ヤクルトにおける戦力外通告をもって現役引退を決断し、[[テレビ朝日]]・[[文化放送]]野球解説者として専属契約を交わしたものの<ref>『寛容力』 p.72 - 74</ref>、東尾の勧めによって、指導者の勉強のため急遽[[台湾]]に渡ることとなり、[[台湾職業棒球大聯盟|台湾大聯盟]]・[[嘉南勇士]]の投手コーチに就任した。
 
ヤクルトにおける戦力外通告をもって現役引退を決断し、テレビ朝日・テレビ埼玉・文化放送野球解説者としての専属契約を交わしたものの断念<ref>『寛容力』 p.72 - 74</ref>、西武時代の先輩であり、渡辺が戦力外通告を受けた当時の西武監督でもあった東尾の勧めによって、指導者の勉強のため急遽[[台湾]]に渡ることとなり、[[台湾職業棒球大聯盟|台湾大聯盟]]・[[嘉南勇士]]の投手コーチに就任する。しかし、言葉による意思疎通が困難であったことから当時台湾大聯盟で技術顧問を務めていた郭泰源に通訳を手配してくれるよう要請したところ「言葉が通じないのであれば(渡辺が)自ら投げて身をもって教えればよい」とアドバイスを受けて急遽選手兼任となり、現役に復帰することになった<ref>『寛容力』 p.90</ref>。なお言葉については中国語の家庭教師を雇って学んだ結果、1年ほどで日常会話程度はこなせるようになり、その後はヒーローインタビューに中国語で答えることもあった<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20150507/lio15050711000001-n2.html 【私の失敗(3)】渡辺久信、通訳不在にがく然…指導できない] - サンケイスポーツ・2015年5月7日</ref>。
 
指導という名目もあり、日本時代のような速球中心のプライドが邪魔をせず、ヤクルト時代に野村から習得を指示されていた、緩いカーブやシュート等緩急を駆使した投球の結果、入団1年目から18勝で最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲得するなど、台湾球界を代表するエースとして活躍した。また、西武在籍当時の同僚であった郭や、台湾に来た[[石井丈裕]]らとともに台湾球界の発展に努め、日本で活躍の場に恵まれない選手にも道を開いた。
 
[[ニワトリ|鶏]]や[[ブタ|豚]]だと思って食べていた肉料理が、実は[[田|田圃]]に棲む体長40~50cmの[[ノネズミ|野ネズミ]]だと聞かされて、噎せ返りそうになったこともあった<ref>台湾ではポピュラーな食材である。</ref>。渡辺も台湾の選手やコーチと酒を飲み、料理を頬張りながら、台湾の文化や慣習に馴染もうと努めた。休日には一人でバスや電車に乗り、知らない町を散策し、時には原付バイクで行く事もあった。夕暮れ時には屋台や食堂にふらりと立ち寄り、居合わせたファンと野球談義に花を咲かせた事もあった<ref>[[赤坂英一]]「プロ野球 二軍監督ー男たちの誇り」2011年4月25日、[[講談社]]、ISBN 4062167875、p71。</ref>。
 
{{by|2001年}}シーズン途中に現役を引退し、コーチ業に専念した。台湾での経験について、渡辺は自著『寛容力』の冒頭で「指導者としての原点は台湾での3年間にある」と語っている。
 
=== 引退後 ===
[[File:Korakuen Stadium-4.jpg|thumb|2008年日本シリーズ 西武vs巨人 スコアーボード(2008年11月9日撮影)]]
[[File:Korakuen Stadium-5.jpg|thumb|2008年日本シリーズ 西武vs巨人 表彰式(2008年11月9日撮影)]]
引退後は[[テレビ朝日]]・[[テレビ埼玉]]・[[文化放送]][[野球解説者|解説者]]、[[日刊スポーツ]][[野球評論家|評論家]]を経て、{{by|2004年}}に二軍投手コーチとして西武に復帰。{{by|2005年}}から二軍監督兼投手コーチ、{{by|2007年}}からは二軍監督専任となる。在任中は[[正津英志]]の復活に尽力した。
 
==== 西武監督時代 ====
{{by|2008年}}より伊東勤の後任として一軍監督に昇格。球団主導で招聘された[[黒江透修]]をヘッドコーチに据え、自ら[[大久保博元]]・[[清家政和]]・[[熊澤とおる]]をコーチとして招聘、チーム力を底上げし前年度Bクラスのチームを就任1年目で優勝に導いた。リーグ優勝時には人目を憚ることなく涙を流し、「こんなに泣いたのは[[オグリキャップ]]の引退レース([[第35回有馬記念]])以来だ」とのコメントを残した<ref name="sanspo20080927">[http://www.sanspo.com/baseball/news/080927/bsg0809270509005-n2.htm ナベQ男泣き!西武4年ぶり21度目V (2/3ページ)]([http://www.sanspo.com/top.htm SANSPO.COM] 2008年9月27日 05:12)同年、西武が日本シリーズ制覇を決めた11月9日には、奇しくもオグリキャップが、18年振りに[[東京競馬場]]に登場していた。</ref>。ポストシーズンでは、[[2008年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]セカンドステージで[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]を4勝2敗(アドバンテージ含む)で破って[[2008年の日本シリーズ|日本シリーズ]]に進出、日本シリーズでは[[読売ジャイアンツ|巨人]]を4勝3敗で破り、チームを4年ぶりの日本一に導いた。さらに[[2008年のアジアシリーズ|アジアシリーズ]]も制覇し、それら功績を評価され2008年の[[正力松太郎賞]]に選出された。
 
リーグ優勝時には人目を憚ることなく涙を流し、「こんなに泣いたのは[[オグリキャップ]]の引退レース([[第35回有馬記念]])以来だ」とのコメントを残した<ref name="sanspo20080927">[http://www.sanspo.com/baseball/news/080927/bsg0809270509005-n2.htm ナベQ男泣き!西武4年ぶり21度目V (2/3ページ)]([http://www.sanspo.com/top.htm SANSPO.COM] 2008年9月27日 05:12)西武が日本シリーズ制覇を決めた11月9日には、奇しくもオグリキャップが、18年振りに[[東京競馬場]]に登場していた。</ref>。ポストシーズンでは、[[2008年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]セカンドステージで日本ハムを4勝2敗(アドバンテージ含む)で破って[[2008年の日本シリーズ|日本シリーズ]]に進出し、日本シリーズでは[[読売ジャイアンツ|巨人]]を4勝3敗で破り、チームを4年ぶりの日本一に導いた。さらに[[2008年のアジアシリーズ|アジアシリーズ]]も制覇し、功績を評価され2008年の[[正力松太郎賞]]に選出された。
伊東の場合はレギュラーシーズン2位で[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]・日本シリーズを制しての日本一であったため、西武でシーズン1位と日本シリーズ優勝を両方達成したのは[[森祇晶]]監督時代の{{by|1992年}}以来。また、前年Bクラスのチームを新人監督が日本一に導いたのは史上初である。
 
伊東の場合はレギュラーシーズン2位で[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]・日本シリーズを制しての日本一であったため、西武でシーズン1位と日本シリーズ優勝を両方達成したのは[[森祇晶]]監督時代の{{by|1992年}}以来。また、前年Bクラスのチームを新人監督が日本一に導いたのは史上初であるとなった
西武歴代監督の中で1年目にして日本一に導いたのは[[広岡達朗]]、[[森祇晶]]、[[伊東勤]]に続き4年振り4人目。
 
{{by|2009年}}は前年のシーズンオフに黒江ヘッドコーチが退任し、さらに大久保打撃コーチが自身の不祥事によって更迭された<ref>2008年オフに引き起こした不祥事によって[[2009年]]は現場を離れ編成部プロ担当へ配置転換され、翌[[2010年]]に二軍打撃コーチとして現場復帰したものの今度は選手に対する暴力事件を起こし球団本部長付となり、その後解雇された。</ref>ことから、コーチ陣を刷新して迎えるシーズンとなった。しかしが、シーズン序盤に抑え投手の[[アレックス・グラマン]]が故障で戦線離脱するなど、中継ぎ・抑え投手が軒並み調子を落としたことが主因となって、チーム成績Bクラスとなる4位と低迷した。同シーズンにおいては計14回のサヨナラ負けを記録しているが、これはパ・リーグにおけるワースト記録であり、両リーグを通じては1988年の[[広島東洋カープ|広島]]、1993年の[[中日ドラゴンズ]]と並ぶワーストタイ記録であった。オフには球団から続投を要請され、新たに2年契約を結んだ。
 
{{by|2010年}}はリリーフ陣の崩壊で接戦を落とした前年度の反省から一転、ロッテから移籍してきた[[ブライアン・シコースキー]]を抑え投手に据え、[[岡本篤志]]・[[藤田太陽]]・[[長田秀一郎]]らをセットアッパーとして起用する継投パターンを確立した。9月16日時点では2位[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]に3.5ゲーム差の首位に立ち、優勝マジック4が点灯していた<ref>もっとも、同時期には中継ぎ投手が軒並み不調に陥り、藤田は8月に二軍降格し、シコースキーは9月以降蓄積疲労のため救援失敗機会が増えつつあった。</ref>。しかし、9月18日 - 20日のソフトバンク3連において同一カード3連敗を喫し0.5ゲーム差に迫られ、9月23日の楽天戦で敗れて2位に転落。9月26日の日本ハム戦で敗れたことでソフトバンクの優勝が決定し、監督3年目は2位で終えた。また、チーム防御率は前身クラウンライター時代以来、33年ぶりのリーグ最下位に転落した。その後[[2010年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ファーストステージでロッテと対戦するが、2試合連続で延長戦に突入した末に2連敗を喫しシーズンを終えた。その後、進退伺を提出したと報道されたが、「負けっぱなしではいられない」との本人の意向から、2011年シーズンの続投が決定した
 
{{by|2011年}}は投手陣の不振が主因となって、前半戦を球団史上15年ぶりの最下位で折り返すこととなった。また、球団史上32年ぶりとなる最大15の負け越しを記録し、7月12日から25日にかけては球団史上初の3カード連続の同一カード3連敗を喫するなど<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20110721-808271.html 西武 球団初の屈辱9連敗] - [[日刊スポーツ]] 2011年7月21日</ref>チーム成績は低迷した。後半戦以降、新人の[[牧田和久]]を抑え投手として抜擢し、セットアッパーとして起用した[[許銘傑|ミンチェ]]・岡本篤志の2人と併せて勝ち試合における継投パターンを確立して投手陣をてこ入れし、さらに中心選手の[[中島裕之]]をキャプテンに任命してチームの建て直しを図った。また、3年目の[[浅村栄斗]]や新人の[[秋山翔吾]]といった若手野手を辛抱強く起用した結果<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20111019-OHT1T00025.htm 1毛差CS!借金最大15から最終戦で大逆転!…西武] - [[スポーツ報知]] 2011年10月19日{{リンク切れ|date=2011年11月}}</ref>、9月14日から27日にかけて2つの引き分けを挟んで10連勝を記録するなど9月の月間成績を19勝5敗とし、クライマックスシリーズ出場へ望みを繋いだ。3位のオリックスと1ゲーム差の4位で迎えた10月18日のシーズン最終戦(日本ハム戦)に勝利、同日オリックスが敗れたことから、わずか勝率1[[毛 (数)|毛]]差で3位に浮上し<ref>公式戦全日程終了時における西武の勝率は.50370(68勝67敗9分)、一方オリックスの勝率は.50364(69勝68敗7分)であり、一般に「1毛差」と解説されるが、実際には「6[[糸 (数)|糸]]差」という極々わずかな勝率の差による逆転劇であった。</ref>[[2011年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]出場を決めるとともに、最大15あった借金を完済し勝率5割以上の成績で公式戦全日程を終了した。また同日試合終了後、球団からの来季続投要請を受諾し、1年契約で2012年シーズンも指揮を執ることを表明した<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20111019-851917.html ナベQ続投1年契約「来年もやります」] - 日刊スポーツ 2011年10月19日</ref>。クライマックスシリーズファーストステージにおいては日本ハムを2連勝で破りファイナルステージ進出を決めたが、ファイナルステージにおいてソフトバンクに0勝4敗で敗退した
 
{{by|2013年}}、終盤までソフトバンク、ロッテなどの[[2013年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]争いが続き、10月5日にCS進出が決定<ref>朝日新聞2013年10月6日スポーツ面</ref>、9月29日から7連勝で2位に浮上し、最終戦は3位のロッテと2位とCSファーストステージ本拠地開催権をかけての試合で勝利し、8連勝で2位でシーズンを終える<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/08/kiji/K20131008006773370.html 西武、8連勝締め!2位死守でCS本拠地開催決めた]スポーツニッポン2013年10月8日配信</ref>。しかしCSファーストステージではロッテに1勝2敗で敗れ、敗退が決まった翌日の10月15日に球団に監督辞任を申し入れ、球団に了承され<ref>朝日新聞2013年10月15日夕刊スポーツ面</ref>、同日に行われた。渡辺は記者会見で「今年の優勝が楽天に決まったときには監督を退こうかなと思っていました」と述べた<ref>[http://www.seibulions.jp/news/detail/8296.html 渡辺久信監督が辞意を表明]西武球団公式サイト2013年10月15日配信</ref>。
 
==== 監督退任後 ====
2013年10月17日、西武球団シニアディレクターへの就任が発表された<ref>[http://www.seibulions.jp/news/detail/8303.htm 渡辺前監督シニアディレクターに就任]西武球団公式サイト2013年10月17日配信</ref>。[[2017年]]1月1日、シニアディレクター兼編成部長への異動が発表された<ref>[http://www.seibulions.jp/news/detail/12331.html 球団本部の人事異動について]西武球団公式サイト2016年12月26日配信</ref>。
 
[[20172018年]]10月21日、[[2019年]]1月1日、シニアディレクター兼編成付で球団本ゼネラルマネージャーへの就任が発表された<ref>[http://www.seibulions.jp/news/detail/1233100002175.html  球団本部の人事異動について]西武球団公式サイト2016201812102621日配信</ref>。
 
[[2018年]]10月21日、[[2019年]]1月1日付で球団本部[[ゼネラルマネージャー]]へ人事異動することが発表された<ref>[http://www.seibulions.jp/news/detail/00002175.html 球団本部の人事異動について]西武球団公式サイト2018年10月21日配信</ref>。
 
== プレースタイル ==
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{{スポーツ選手の出典明記|選手=元プロ野球選手|人物像|section=1|date=2011年7月}}
=== 現役当時 ===
現役時代は、私服で[[DCブランド]]を着こなし、さらにグラウンド内外での[[ファッション]]・アクションが球界や社会に影響を与え、西武時代のチームメイトであった工藤や[[清原和博]]と共に'''『[[新人類]]』'''と称された<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100120/bbl1001200237000-n1.htm 【話の肖像画】男のプライド(中)プロ野球投手・工藤公康 - MSN産経ニュース]{{リンク切れ|date=2011年11月}}</ref>。さらに185cmの長身でスリムなことから[[西崎幸広]]・[[阿波野秀幸]]・[[星野伸之]]らと「トレンディエース」と並び称され、女性ファンから絶大な支持を受けていた。入団2年目ごろまではまだ年俸が低かったため、年収の2/3ほどを洋服代に費やし、税金が払えなくなり督促状が届いたこともある<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20150508/lio15050811000001-n1.html 【私の失敗(4)】渡辺久信、洋服を買いすぎて税金払えず] - サンケイスポーツ・2015年5月8日</ref>。しかし、1991年4月頃から[[頭髪]]が薄くなり始め女性ファンからの人気は徐々に減っていってしまったという。さらに[[中華民国|台湾]]へ渡ってからは[[屋台|屋台飯]]にはまったことが原因で太り気味にもなってしまい、選手達にも「今じゃ信じられないだろうが、昔はこれでも西崎さん・阿波野さんと並んで[[イケメン]]と言われていたんだ」と自虐的にジョークを飛ばしている。
 
現役時代の愛車は最初に買った中古の[[BMW]]を除き、[[メルセデス・ベンツ]]一筋。当時の西武には[[土井正博]](2軍打撃コーチ)と東尾の名球会コンビ以外は、ベンツに乗ってはならないとする暗黙のルールが存在したが、これを破りプロ入り3年目にベンツを購入し、これ以降多くの同僚選手が相次いでベンツを買ったため、後に「私が“ベンツ解禁”の先駆者になった」と語っている<ref>[http://celebcar.blog78.fc2.com/blog-entry-683.html 『週刊新潮』2012年1月26日号] 有名人&芸能人の愛車データベース 2012年2月23日</ref>。
 
入団当時の監督であった[[広岡達朗]]の『[[広岡達朗#管理野球|管理野球]]』には辟易したと語る。選手寮に入って初めての食事の際、[[ご飯]]が茶色い[[玄米]]であったことと、[[冷蔵庫]]に[[牛乳]]が入っておらず[[豆乳]]のみであったことに驚かされたという。当時の玄米にしても豆乳にしても現在のような洗練された味ではなかったことから非常に不味かったが、おかずだけは美味しかったために何とかなったと回想している<ref>『寛容力』 p.172</ref>。渡辺自身、管理されるのが最も嫌いな性格であったことから、将来「監督になったら絶対に管理はしないぞ」と誓ったという<ref>[[週刊ポスト]]、2009年2月6日号、p68 - 69</ref>。もっとも、その一方で「今思えばその経験が良かったと思う。『新人類』と騒がれても、道は断じて踏み外していない。最初の上司が放任主義者なら、もう今頃はどうなっているか、何をやっているかすら分からない。そういう意味では広岡さんに礎を作ってもらったのかも知れない」<ref>[[週刊朝日]]、2009年4月10日号、p35</ref>、「蹴飛ばされたこともあったが、若いときに広岡さんと出会えたことは僕にとっては幸運だった」と当時を振り返っている<ref>[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin02/article.php?storyid=2053 SPORTS COMMUNICATIONS - 西武、4年ぶりリーグ制覇!]</ref>。
 
かつてのチームメイトであった工藤や清原からは「今までやってきた27年間の中でプロ野球投手としては最高の存在」と高い評価を受けている。工藤によると、素質・筋肉の質・関節の柔軟性(と人気)をどれを取っても一流で、肺活量は7,500cc(通常プロは6,000cc前後)もあったという。また、工藤は「もう時効だから言いますけど、アイツ中学生の頃から喫煙していたにもかかわらず肺活量が並外れていて、それでいて筋肉の質も超一流。シーズン200イニング以上投げておきながら、試合後はまったくマッサージを受けないで平気でした。僕がマッサージを受けてる横から『工藤さん、お先です』って行って飲みにいってしまったの。今では200イニング投げるピッチャーっていませんよ」と述べている<ref>文藝春秋2008年5月号 工藤公康・あさのあつこ対談「バッテリーは永遠の友情の絆」 なお、渡辺から見て先輩に当たる工藤は、渡辺が監督を務める西武に2010年の1シーズン現役選手として所属した。</ref>。また、清原は[[菊池雄星]]との対談で「渡辺監督と[[潮崎哲也|潮崎コーチ]]なんて手本が揃ってるチームは滅多にない。特に渡辺監督。あの人についていけばまず大丈夫」とその手腕を絶賛した。
 
酒の強さも人並み外れており、[[1年後輩の大久保博元]]からは「西武時代の同僚で一番酒に強かった」「どんなに飲んでも、二日酔いが人生で一度もない人」と評されている。現役当時は「5人で[[ヘネシー (コニャック)|ヘネシー]]5本は飲む」という中で「一番飲んでるのが僕(大久保)とナベちゃん」だったという。監督となってからも「若い頃と飲みっぷりが変わらなかったし、酔っぱらわない」としている<ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/282720 大久保博元さん 西武時代に一番酒に強かったのは渡辺久信] - 日刊ゲンダイDIGITAL・2020年12月21日</ref>。
 
=== 指導者として ===
基本的には怒らないことを指導方針としているが、プロ意識を欠いた人間を非常に嫌う人物である。台湾時代には新人ながら素質十分で練習しなくても活躍し、そのため首脳陣も何も口を出さなかった投手を呼びつけて「お前がどんなに優れた才能を持っていても、今の態度じゃ俺達のチームはお前なんていらない」と叱ったり、失策を犯した後に好プレーをした三塁手がコーチと[[ハイタッチ]]しているのを見て試合後「こんな馴れ合いの環境じゃ、絶対に強くなれないぞ!」と怒鳴りつけたこともある。

西武二軍監督時代も「一人前の野球選手になる前に、まずは一人前の社会人にならなければならない」との方針から、若手選手の緊張感を欠いた態度には厳しく接した<ref>『寛容力』 p.179 - 181</ref>。
 
== 詳細情報 ==