「長宗我部兼序」の版間の差分
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| 死没 = [[永正]]5年([[1508年]])9月<br />または永正15年([[1518年]])以降
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| 別名 = 元秀
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'''長宗我部 兼序'''(ちょうそかべ かねつぐ
[[長宗我部雄親]]の子で、[[長宗我部元親]]の祖父。管領[[細川政元]]の権勢のもと土佐国の有力者となるが、政元が暗殺されると失脚した。 == 生涯 ==
土佐の国人領主・長宗我部雄親の子として誕生。
文明10年([[1478年]])、父・雄親の死をうけて[[家督]]を継ぎ、土佐[[守護]]の[[細川政元]]に仕えた(ただし、主君の政元は数か国の守護を兼ねる幕府随一の権力者でほとんど京・畿内にいたため、土佐に在地する兼序が直接常に会って仕えていたわけではない)。兼序の別名・元秀の「元」の字は政元から賜ったものと考えられる。
兼序は智勇兼備の武将で家臣団からの信望も厚く<ref>「武勇才幹衆に越へ、大敵を見てはあざむき、小敵を侮らず、寡を以って衆に勝ち、柔を以って堅きを挫く事孫呉が妙術を得たる大将」(『[[土佐物語]]』)</ref>、その治世は当初はうまく機能していた<ref>「威勢甚だ盛にして、人唇をかへす事共多かりけり」(『土佐物語』)</ref>。しかし[[香美郡]]の[[山田氏]]と抗争し続けたうえ、政元や[[土佐一条氏|一条氏]]の後ろ盾をいいことに次第に傲慢な態度が目立つようになり、土佐の豪族から反感を買うようになった<ref>「年頃細川殿御前よければ、其威を以て国侍を蔑にあつかう」(『[[土佐軍記]]』)</ref>。
永正4年([[1507年]])
通説では兼序は岡豊城で自害し、兼序の遺児千雄丸(後の[[長宗我部国親]])は落ち延びて[[一条房家]]を頼ったとされる。近年では、兼序は自害せず脱出し亡命、永正8年([[1511年]])に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰し、永正15年([[1518年]])頃に息子・国親へ家督を譲ったとする説もある<ref>{{Cite journal|和書|title=戦国武将の全国勢力変遷マップ|journal=歴史人|issue=No.25(10月号)|year=2012|publisher=KKベストセラーズ|page=85}}</ref>。
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