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'''アルチ・ノヤン'''({{Lang-mn|Alči Noyan}},? - ?)とは、[[13世紀]]初頭に[[モンゴル帝国]]に仕えた[[コンギラト]]部出身の[[ミンガン|千人隊長]]の一人。
 
『[[モンゴル秘史]]』や『[[元史]]』などの[[漢文]][[史料]]では'''阿勒赤'''(ālèchì)古咧堅/'''按陳'''(ànchén)那/'''按赤'''(ànchì)那顔、『[[集史]]』などの[[ペルシア語]]史料では'''الجی كوركان'''(āljī gūrkān)と記される。
 
== 概要 ==
アルチ・ノヤンはコンギラト部の族長[[デイ・セチェン]]の息子として生まれ、妹には[[ボルテ]]がいた。デイ・セチェンの家系はコンギラトの枝族ボスクル(孛思忽児)の出であった<ref>『元史』巻118列伝6特薛禅伝,「特薛禅、姓孛思忽児、弘吉剌氏、世居朔漠……女曰孛児台、太祖光献翼聖皇后。子曰按陳、従太祖征伐、凡三十二戦、平西夏、断潼関道、取回紇尋斯干城、皆与有功」</ref>が、この一族にとって転機となったのがボルテとキヤト氏の長テムジン(後の[[チンギス・カン]])との婚姻であった。『モンゴル秘史』は「デイ・セチェンがイェスゲイに連れてこられたテムジンの顔つきを気に入り、その場で娘のボルテを嫁がせる約束をした」という逸話を伝える一方、『集史』「コンギラト部族志」は「テムジンはボルテと結婚したいとデイ・セチェンに訴えたが何度も拒絶され、テムジンと仲の良かったアルチの尽力によりようやく結婚が許された」と記している<ref>志茂2013,724-725/732-734頁</ref>。若い頃のテムジンの勢力は弱小で苦労したことが知られており、『集史』の記述の方が史実に近いと考えられている。
 
[[1206年]]にモンゴル帝国が建国されると、アルチは帝国の幹部層たる千人隊長に任ぜられた。『モンゴル秘史』の功臣表では86位に列せられ、『集史』「チンギス・カン紀」の「千人隊長」一覧には左翼6番目の千人隊長として名前が挙げられている。『集史』では5つの千人隊を有していたと記されるが、これは[[バアリン]]部の10千人隊に次ぐ大兵力であった。
 
[[1213年]]に[[ (王)|金朝]]遠征が始まると、アルチは[[ムカリ]]率いる左翼軍に加わり、[[遼西郡|遼西]]・[[遼東郡|遼東]]一帯の攻略を担当した。その途中、アルチは[[遼]]の宗室につらなる[[契丹]][[耶律留哥]]に出会い、耶律留哥はモンゴル軍に加わることを希望した。その後、耶律留哥は自らの有する兵を差し出した上、矢を折ってモンゴル帝国に仕えることを盟約し、これを受けてアルチは「我は[チンギス・カンの下に]帰り、遼の征服は汝に任せるよう奏上しよう」と語った。この言葉通り、後にアルチがチンギス・カンの下に帰還した後は耶律留哥が遼河一帯に駐屯することになった<ref>『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「耶律留哥、契丹人……太祖命'''按陳那'''・渾都古行軍至遼、遇之、問所従来、留哥対曰『我契丹軍也、往附大国、道阻馬疲、故逗遛於此』。'''按陳'''曰『我奉旨討女真、適与爾会、庸非天乎。然爾欲效順。何以為信』。留哥乃率所部会'''按陳'''於金山、刑白馬・白牛、登高北望、折矢以盟。'''按陳'''曰『吾還奏、当以征遼之責属爾』。……帝命'''按陳'''・孛都歓・阿魯都罕引千騎会留哥、与金兵対陣於迪吉脳児……帝召'''按陳'''還、而以可特哥副留哥屯其地」</ref>。
 
[[1218年]]、チンギス・カンは金朝侵攻の指揮権を[[ジャライル]]部の[[ムカリ]]に委ね、[[マングト]]千人隊を率いる[[モンケ・カルジャ]]、コンギラト千人隊を率いるアルチ・ノヤン、[[イキレス]]2千人隊を率いる[[ブトゥ・キュレゲン]]、諸部族混合兵を率いる[[クシャウル]]と[[ジュスク]]、現地徴発の契丹・女真・漢人兵を率いる[[ウヤル]]らがその指揮下に入った<ref>『聖武親征録』「戊寅、封木華黎為国王、率王孤部万騎・火朱勒部千騎・兀魯部四千騎・忙兀部将木哥漢札千騎・弘吉剌部'''按赤那顔'''三千騎・亦乞剌部孛徒二千騎・札剌児部及帯孫等二千騎、同北京諸部烏葉児元帥・禿花元帥所将漢兵、及札剌児所将契丹兵、南伐金国」</ref>。この軍団の内、特にジャライル部・マングト部・コンギラト部・ウルウト部・イキレス部の5部はこれ以降一つの軍団として扱われることが多くなり、「[[五投下|左手の五投下]]」と総称されるようになる。
 
このモンゴル帝国の東方軍団においてアルチはムカリに次ぐ地位にあったようで、現地の漢人からは「'''尚書令'''([[尚書省]]の長)」とも呼称されていた<ref>ただし、あくまで漢人の側がアルチの地位をそのように表現したというだけのことで、実際に尚書省が設置されていたわけではない。なお、後に[[耶律楚材]]が「中書令」と称されているが、これは他称で、しかも耶律楚材の職権はごく限定されたものであったため、「征服地の統治機関の長」という意味ではアルチの「尚書令」という称号の方が実態にあったものであると考えられている(杉山1996,303-315頁)</ref>。この頃ムカリの下を訪れた趙珙は『[[蒙韃備録]]』において、「アルチは法をよく守るため、モンゴル人はムカリに従う者は悪人でアルチに従う者は善人だと言っている」と書き記している<ref>『蒙韃備録』「諸将功臣……又其次曰按赤那、見封尚書令、成吉思正后之弟、部下亦有騎軍十余万、所統之人頗循法、韃人自言、国王者皆悪、尚書令者皆善也」</ref>。軍事面では[[1224年]](甲申)に[[東平路|東平]]・[[大名路|大名]]を攻略し<ref>『元史』巻149列伝36劉伯林伝,「黒馬名嶷、字孟方……甲申、従'''那延'''攻破東平・大名」</ref>、[[1226年]](丙戌)に[[益都路|益都]]の攻囲を行っている<ref>『元史』巻151列伝38杜豊伝,「皇舅按赤那延授兵馬都提控……丙戌、従按赤那延攻益都、金守将突囲出」</ref>。
 
[[1227年]](丁亥)、チンギス・カンの晩年にはその地位を賞して「国舅」の号を与えられた。[[1232年]](壬辰)には河西王に封ぜられ、[[1237年]](丁酉)には更に万戸(万人隊長)の称号を授けられた。これ以後、アルチの子孫は代々「万戸」を称するようになる。それから間もなくアルチは亡くなり、[[1295年]]には済寧王に追封された<ref>『元史』巻118列伝6特薛禅伝,「歳丁亥、賜号国舅按陳那顔。壬辰、賜銀印、封河西王、以統其国族。丁酉、賜銭二十万緡、有旨『弘吉剌氏生女世以為後、生男世尚公主、毎歳四時孟月、聴読所賜旨、世世不絶』。又賜所俘獲軍民五千二百、仍授万戸以領之。按陳薨、葬官人山。元貞元年二月、追封済寧王、諡忠武。妻哈真、追封済寧王妃」</ref>。
 
== 脚注 ==