「高見 (北九州市)」の版間の差分
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八幡東区東部に位置しており、[[戸畑区]]と隣接する。地区の南側を東西に[[板櫃川]]が流れ、地区の北側は丘陵地になっている。
かつて同地には、[[新日本製鐵|新日鉄]][[日本製鉄九州製鉄所八幡地区|八幡製鐵所]]の幹部社宅が整備され、製鉄所福利厚生施設としてグラウンド
21世紀に入り、新日鉄都市開発(現・[[日鉄興和不動産]])による高級戸建住宅地「高見三条」を含む45[[ヘクタール|ha]]において、「住宅市街地総合整備事業」が行われており、緑地、板櫃川、桜並木などの自然環境を生かし「桜と水辺とふれあいの街」をテーマに高級住宅街として整備され、道路、公園、河川、商店等の一体的整備が進められている<ref>[http://www.city.kitakyushu.jp/pcp_portal/PortalServlet;jsessionid=56B62C8B09555D68EAD1B869AA90BB1B?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=3667 北九州市のホームページ]住宅市街地総合整備事業 八幡高見地区</ref>。
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平坦な土地と水があるこの地には古くから人間が住んでいた事が分かっている。現在の高見付近からは[[弥生時代]]から[[古墳時代]]前期の自然流路や高坏、壺、甕といった多くの土器が発見されており、水辺で祭祀を行っていたと考えられている。また、[[奈良時代]]から[[平安時代]]には既に安定した地形となっており、中世以降には水田となっていた事が判明している。江戸時代は、[[豊前国]][[企救郡]]板櫃村や[[筑前国]][[遠賀郡]]八幡村に属していた地域であり、同地内で豊前国と筑前国の国境となっていた。
[[1906年]]に[[農商務省 (日本)|農商務省]]が板櫃村槻田の一部を官舎用地として買い取り
[[1907年]]には三条から七条に長官や高等官、判任官の官舎が建築されたほか、ドイツ人顧問技師であったグスタフ・トッペの官舎が[[洞海湾]]岸の高見山(現在の[[東田 (北九州市)|東田]]地区)から移築され、「公餘倶楽部」(現在の高見倶楽部)となった。この事からこの一帯を「高見」と呼ぶようになったといわれる。高見山の由来となった[[高見神社]]は、製鉄所建設により[[1933年]]に高見に移転した。高見倶楽部は製鉄所の迎賓館として使用されており、[[1954年]]に[[昭和天皇]]が九州巡幸を行った際、高見倶楽部に滞在し一泊している。[[1916年]]には[[北九州市立高見小学校|高見尋常小学校]]が開校した。[[1971年]]
[[2004年]]からは「高見夏祭り」が行われている。祭りには地域住民のほか地域の学校なども参加して行われ、
== 主な施設 ==
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* [[高見神社]](八幡製鐵所守護神として鎮座)
* 高見倶楽部(八幡製鐵所迎賓・幹部向け厚生施設)
* [[西鉄ストア|スピナ
* 高見ショッピングセンター(リバーサイド荒生田)
* 八幡高見郵便局
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