削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
冗長記述、重複記述の修正
61行目:
| 方言 = [[東京弁]]
| 最終学歴 = [[東京都立竹台高等学校]][[卒業]]
| 師匠 = [[片岡鶴八]]、[[隼ジュン]]
| 出身 =
| コンビ名 =
82行目:
| 受賞歴 = [[新語・流行語大賞]]流行語部門・大衆賞<br />第15回[[日本放送演芸大賞]]奨励賞<br />第4回[[花王名人大賞]]新人賞<br />第5回・第6回花王名人大賞名人賞<br />第10回[[手島右卿]]賞(書道)
}}
'''片岡 鶴太郎'''(かたおか つるたろう、[[1954年]][[12月21日]] - )は、[[日本]]の[[俳優]]、[[お笑いタレント]]、[[歌手俳優]]、[[画家]][[書家]]、[[ヨガ|ヨガ実践家]]としても活動しておりかつては[[プロボクサー]]活動もしていた

本名は'''荻野 繁雄'''(おぎの しげお)。愛称は「'''鶴ちゃん'''」。[[太田プロダクション]]所属。絵を描くときのみ左利き。

弟は太田プロダクション社員(バラエティマネージメント1部長)の荻野良乙(よしお)。三男は日本料理店オーナーシェフの荻野聡士(さとし)。
 
[[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]]出身<ref name="nhkg20150313">{{Cite episode |title = 片岡鶴太郎〜羽子板と闇市の恋 下町・泣き笑い物語〜 |series = [[ファミリーヒストリー]] |network = [[NHK総合]] |airdate=2015-03-13 |url = https://datazoo.jp/tv/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%92%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC/838669 }}</ref>。[[東京都立竹台高等学校]]卒業。
90 ⟶ 94行目:
 
=== 生い立ち ===
実家の荻野家は[[埼玉県]][[所沢市]]の農家であり<ref name="ierireki">{{Cite journal |和書 |title=家の履歴書(461) |journal=[[週刊文春]] |issue=2004年3月4日号 |publisher=[[文藝春秋]] |pages=70-73}}</ref>、父方の祖父は[[神田 (千代田区)|神田]]で果物屋を営んでいた<ref name="nhkg20150313" />。鶴太郎の父は長男だったため、彼の母は彼の弟だけを引き取り、は所沢の[[家制度|本家]]に置いて行かれた<ref name="ierireki" />。母方の祖父は[[羽子板]]職人だったが、[[太平洋戦争]]の[[空襲]]で家と職業道具全てを失ってこれを機に廃業し<ref name="ierireki" />、戦後は[[お好み焼き]]を売るようになった<ref name="nhkg20150313" />。鶴太郎の父は復員後、職を求めて[[成増]]の金属加工工場に就職し、工場の寮で鶴太郎の母と出会った<ref name="nhkg20150313" /><ref name="ierireki" />。結婚後は[[西日暮里]]の妻の家族の近所で暮らし始め<ref name="ierireki" />、1954年に鶴太郎が生誕している<ref name="nhkg20150313" />。
 
鶴太郎は父に連れられて、寄席や演芸場へ通っていた<ref name="nhkg20150313" />。物心づいた頃から芸人を志し<ref name="nhkg20150313" />、10歳の時動物の物真似で[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の素人参加番組『[[しろうと寄席 (フジテレビ)|しろうと寄席]]』にテレビ出演。その時しているが、番組の[[アシスタントディレクター|AD]]が後に『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』の[[プロデューサー]]となる[[横澤彪]]だった。早くから芸人を志し、

高校進学に際しては中学3年時の初めには成績が下から2、3番だったが、夏休みの1か月間で小学校6年生の教科書からやり直し上位10番に入り、[[東京都立竹台高等学校]]に入学した。演劇部に所属し、3年次には部長を務めた<ref>{{Cite web|url=https://spice.eplus.jp/articles/167253|title=片岡鶴太郎 25年ぶりの舞台『笑う巨塔』出演 ~タクフェス「春のコメディ祭」取材会で意気込みを語る|publisher=SPICE|date=2018-02-20|accessdate=2021-01-24}}</ref>。
 
=== デビュー ===
[[高等学校|高校]][[卒業]]後、[[俳優]]を目指して[[清川虹子]]の自宅へ何のあても無く唐突に訪問し弟子入りを志願したが清川には会えず、清川の付き人から「男の付き人は採らない」と断られ、終いには「[[警察]]を呼ぶぞ」と警告されて断念した。粘れば弟子入りを許してもらえるだろうと思っていた目論見が崩れてしまった鶴太郎は、生活の為しばらく土木作業員などの仕事を経験した後、[[1973年]]に[[声帯模写]]の[[片岡鶴八]]に弟子入りし、声帯模写で[[東宝名人会]]や[[浅草松竹演芸場]]などの舞台に出演するようになる<ref name="週刊現代" >{{Cite journal |和書 |journal=[[週刊現代]] |issue=2010年10月9日号 |publisher=[[講談社]] |pages=86-88}}</ref><ref name="city.arakawa" >{{Cite interview |subject=片岡鶴太郎 |interviewer=江坂裕子 |title=俳優、画家 片岡鶴太郎 |url=http://www.city.arakawa.tokyo.jp/unet/issue/interview/0410/index.html |program=荒川ゆうネットアーカイブ, [[荒川区]] |accessdate=2018-02-02}}</ref>。
 
師匠である片岡鶴八は、「声帯は人によって違うから、君に僕の芸はそのまま教えられない」と、芸を教えてくれなかったが、そば屋に連れて行ってもらってそばの食べ方の手ほどきを受けたり、「芸人として売れるまで、そば屋では[[盛りそば]]しか食べてはいけない」など芸人としての「粋」を教えてもらったと語る。鶴八は、盛りそばを食べる鶴太郎の目の前で江戸前の天丼を食べていたが、これは「君も早く売れる芸人になりなさい」という師匠なりの激励であった。鶴太郎は師匠の懐の深さを知り、「いつかは師匠と一緒に天丼を食べたい!」と決意するが、売れ出した頃には鶴八は既に亡くなっており、その願いは叶うことがなかった。
 
[[1976年]]頃に大阪で[[隼ジュン]](後の隼ブラザーズ)の元で修行、岡鶴太郎(デビュー当初は「片」がない)の芸名(後に「華の鶴太郎」)でトランポリンの地方興行を行う。2年ほど在籍した後、このままで終わってしまうことに不安を感じ、九州興行の際、無断で一座から逐電してしまう<ref name=":0">{{Cite web|title=【コラボ片岡鶴太郎】長渕剛歌唱中に暴挙!?暴走しまくり、ひょうきん族時代の爆笑エピソード&下積みエピソード満載!【ピヨコちゃん誕生秘話】 - YouTube|url=https://www.youtube.com/watch?v=flbSH5ZT0oE|website=www.youtube.com|accessdate=2021-01-05}}</ref>。その事が原因で干されてしまい、知人の紹介で[[松山市|松山]][[道後温泉]]で劇団に所属して司会やものまねの仕事に就き修行を重ねる<ref name="週刊現代" /><ref name="city.arakawa" /><ref>{{Cite web |url=http://www9.nhk.or.jp/sakanoue/interview/03/index3.html |title=八代六郎役 片岡鶴太郎 インタビュー 3 |work=スペシャルドラマ 坂の上の雲 |publisher=[[日本放送協会]] |deadlinkdate=2018-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101117025035/http://www9.nhk.or.jp/sakanoue/interview/03/index3.html |archivedate=2010-11-17 |accessdate=2018-02-02}}</ref>。温泉旅館での宿泊客の老人には持ち芸である[[小森和子]]の真似はウケなかったが、鶴太郎の才能を理解し、身の回りの世話をしてくれていた座長の娘<ref name=":0" />と半年後に上京、結婚した<ref>以上、ゲスト出演した[[文化放送]]『[[くにまるワイド ごぜんさま〜]]』でのインタビューによる</ref>{{信頼性要検証|date=2018年2月|title=検証できません。}}。妻との間には3人の息子をもうけたが<ref>『[[誰だって波瀾爆笑]]』より</ref>{{信頼性要検証|date=2018年2月|title=検証できません。}}、テレビ番組では30歳の頃から別居状態であると明かしており<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[週刊女性]] |issue=2017年9月5日号 |publisher=[[主婦と生活社]] |pages={{要ページ番号|date=2018年2月}}}}</ref>、[[2017年]]に離婚している<ref>{{Cite news |title=鶴太郎、離婚していた…38年連れ添うも今年3月円満に |newspaper=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]] |date=2017-08-18 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/08/18/kiji/20170817s00041000330000c.html |accessdate=2018-02-02}}</ref>。一部週刊誌は離婚の原因を若い頃からの浮気癖としているが<ref>{{Cite web |author=佐々木博之 |date=2017-08-19 |url=http://www.jprime.jp/articles/-/10402 |title=片岡鶴太郎、離婚発表も30年別居中のある意味ストイックな不倫疑惑 |work=週刊女性PRIME |publisher=主婦と生活社 |accessdate=2017-08-22}}</ref>、本人はヨガに熱中してストイックな生活に没頭したため妻とのすれ違いが生じたと真相を語っている<ref>{{Cite news |title=片岡鶴太郎、離婚していた!22キロ減のストイック生活ですれ違い |newspaper=[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]] |date=2017-08-18 |url=http://www.sanspo.com/geino/news/20170818/div17081805050001-n1.html |accessdate=2017-08-22}}</ref>。
 
=== 全国区の人気 ===
24歳の時、実質的なテレビデビューとなるフジテレビ系『[[お笑い大集合]]』に出演、ここで後に、[[漫才ブーム]]の仕掛け人の一人となった横澤彪と再会した。片岡鶴太郎の芸名で[[テレビ]]に進出するが漫才ブームには乗れず<ref name="週刊現代" />。その後[[お笑いタレント]]として『[[オレたちひょうきん族]]』で披露した[[近藤真彦]]の[[物真似|ものまね]]により一躍脚光を浴び、九官鳥の「キューちゃん」や[[浦辺粂子]]、[[たこ八郎]]等の真似で人気を博した。
 
当時は小太りの体型で、熱い[[おでん]]を無理矢理食べさせられて大げさなリアクションを繰り出す<ref>おでんはネタとして行ったものではなく、1984年3月17日に放送されたひょうきん族のコント(鶴太郎は浦辺粂子役)で夕食のシーンに出てきたおでんがあまりにも熱く、氷水を飲んで流し込もうとしたが喉につっかえて噴きだしてしまった。その様があまりにも面白かったため定番のネタとなった。</ref> など、被虐的な[[キャラクター]]だった。そのため、鶴太郎こそがいわゆる「[[リアクション芸人]]」の元祖だとの声もある<ref>{{Cite web|url=https://www.asagei.com/excerpt/70039|title=片岡鶴太郎の「度を越した健康オタク生活」「ミイラみたいな細い体」に驚愕の声|publisher=アサ芸プラス|date=2016-11-15|accessdate=2020-11-28}}</ref><ref>[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[メントレG]]』(2007年11月11日放送、片岡鶴太郎、ダチョウ倶楽部、[[柳原可奈子]]がゲストの回)より</ref>{{信頼性要検証|date=2018年2月|title=検証できません。}}。
 
今でこそその芸風は{{読み仮名|払拭|ふっしょく}}され全く見られないが、『[[オールナイトフジ]]』では[[ポータブルトイレ#おまる|おまる]]の中に[[かりんとう]]を入れて示すなどの下ネタを披露したり、同番組内の“鶴太郎劇団”という寸劇コーナーでは頻繁に女装して、男装した共演の女子大生と絡みのシーンを演じる、劇の最後のオチで全裸を女子大生に見せ付けるといった下品なキャラクターであった。「アブラギッシュな男No.1」という不名誉な称号を得たのもこの頃である([[井手らっきょ]]は、鶴太郎の芸風に影響を受け全裸ネタを使うようになったと語っている)。
 
お茶の間に定着して以降、物真似ではとりわけ老けキャラの開拓を得意とし[[小森和子]]・[[浦辺粂子]]・[[坂上二郎]]など多数)の物真似で知られ、後年にも、[[宮路年雄]](城南電機社長)や[[横山昭二]]([[麻原彰晃]]の最初の[[弁護人#私選弁護人|私選弁護人]])ら、話題の人物を好んで演じてみせた。
また、『オールナイトフジ』で[[萩原健一]]と「[[愚か者|愚か者よ]]」を歌った際には、萩原にズボンを脱がされてパンツとワイシャツだけの姿になってしまった。
 
お茶の間に定着して以降、物真似ではとりわけ老けキャラの開拓を得意とし([[小森和子]]・[[浦辺粂子]]・[[坂上二郎]]など多数)、後年にも、[[宮路年雄]](城南電機社長)や[[横山昭二]]([[麻原彰晃]]の最初の[[弁護人#私選弁護人|私選弁護人]])ら、話題の人物を好んで演じてみせた。
 
持ち前の器用さからバラエティ番組の司会やトークも数多くこなし、1986年には鶴太郎の造語「[[プッツン]]」(たとえとして脳の血管や堪忍袋の緒、あるいは緊張の糸が切れて突飛な行動を取ること。またはその人物)が[[新語・流行語大賞]]の流行語部門・大衆賞に選ばれた。
 
=== 多方面での活動 ===
『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』に出演の際には、[[タモリ]]と「'''キューちゃん'''」のマネを必ず行っていた。これは、『[[FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島]]』に登場した[[九官鳥]]がモデルとなっている。
 
もともと歌が上手く([[東京荒川少年少女合唱隊]]の第一期生でもあった)、歌唱力の高さを活かして[[1980年代]]半ば頃まではコンスタントにシングルを発売していた。『[[オレたちひょうきん族]]』などで歌わせてもらうもヒットせず逆にお世辞にも上手とは言えない[[明石家さんま]]が「真赤なウソ」や人気コーナー「[[タケちゃんマン]]」の挿入歌「アミダばばあの唄」、CMで話題となった「幸せってなんだっけ」をヒットさせたことで、なぜさんまより歌の上手い自分の曲がヒットしないのかとぼやいていたという。鶴太郎は当時『ひょうきん族』の収録日である水曜日に生放送されていた『[[夜のヒットスタジオ]]』にも歌手として2度ほど出演実績を持っている。一方さんまは飛び入りの応援ゲストとしての登場はあったが、歌手としての出演実績はない。
 
もともと歌が上手く([[東京荒川少年少女合唱隊]]の第一期生でもあった)、歌唱力の高さを活かして[[1980年代]]半ば頃まではコンスタントにシングルを発売していた。『[[オレたちひょうきん族]]』などで歌わせてもらうもヒットせず逆にお世辞にも上手とは言えない[[明石家さんま]]が「真赤なウソ」や人気コーナー「[[タケちゃんマン]]」の挿入歌「アミダばばあの唄」、CMで話題となった「幸せってなんだっけ」をヒットさせたことで、なぜさんまより歌の上手い自分の曲がヒットしないのかとぼやいていたという。鶴太郎は当時『ひょうきん族』の収録日である水曜日に生放送されていた『[[夜のヒットスタジオ]]』にも歌手として2度ほど出演実績を持っている。一方さんまは飛び入りの応援ゲストとしての登場はあったが、歌手としての出演実績はない。
『[[ザ・ベストテン]]』にもランクイン記録はないが1989年7月27日放送のスポットライトのコーナーに「思いの丈で…」で出演したことがある。
 
『[[ザ・ベストテン]]』にもランクイン記録はないが1989年7月27日放送分の「今週のスポットライトのコーナーに「思いの丈で…」で出演したことがある。
[[1988年]]には、「今までの自分が嫌になり、それを否定したかった」という理由から[[プロボクサー]]テストを受験。当時[[ボクシング]]のプロテストの受験資格年齢は29歳までであったため、33歳(当時)の鶴太郎には本来受験資格がなかったが、[[日本ボクシングコミッション]](JBC)に懸命に頼み込み、「合格しても試合には出場できない」という条件で特別に受験が叶い合格した。受験にあたって前年から減量を始め、それまでの小太りから急激にシャープな体型に変わった。
 
[[1988年]]には、「今までの自分が嫌になり、それを否定したかった」という理由から[[プロボクサー]]テストを受験した。当時[[ボクシング]]プロテストの受験資格年齢は29歳までであったため、当時33歳(当時)の鶴太郎には本来受験資格がなかったが、[[日本ボクシングコミッション]](JBC)に懸命に頼み込み、「合格しても試合には出場できない」という条件で特別に受験が叶い合格した。受験にあたって前年から減量を始め、それまでの小太りから急激にシャープな体型に変わった。
プロテスト後は[[鬼塚勝也]]や[[畑山隆則]]のマネージャーとして、タイトルマッチではセコンドを務めるなど両人の世界王座奪取に大きく貢献。後に、芸能活動において鬼塚や畑山などの元プロボクサーが鶴太郎と同じ太田プロに所属する切っ掛けとなった。[[1988年]]から[[1994年]]に放送された『[[季節はずれの海岸物語]]』では主役の高村圭介を演じると同時に、鬼塚勝也との共演も果たした。1990年にTBS『[[月曜ドラマスペシャル]]』で放送された『昭和のチャンプ〜たこ八郎物語〜』では、かつて『オレたちひょうきん族』で物まねをした[[たこ八郎]]を、彼の前半生でのボクサーとしての視点を主体にシリアスに演じている。
 
プロテスト合格後は[[鬼塚勝也]]や[[畑山隆則]]のマネージャーとして、タイトルマッチではセコンドを務めるなど両人の世界王座奪取に大きく貢献し、引退に、芸能活動において鬼塚や畑山などの元プロボクサーが鶴太郎と同じ太田プロに所属する切っ掛けとなった。[[1988年]]から[[1994年]]に放送された『[[季節はずれの海岸物語]]』では主役の高村圭介を演じると同時に、鬼塚勝也との共演も果たした。1990年にTBS『[[月曜ドラマスペシャル]]』で放送された『昭和のチャンプ〜たこ八郎物語〜』では、かつて『オレたちひょうきん族』で物まねをした[[たこ八郎]]を、彼の前半生でのボクサーとしての視点を主体にシリアスに演じている。
[[1988年]]、映画『[[異人たちとの夏]]』の監督・[[大林宣彦]]に[[江戸弁]]を気に入られ主人公の父親役に抜擢されると評判を呼び、多くの映画賞を受賞、活動の軸足を[[俳優]]に移す<ref name="週刊現代" /><ref name="city.arakawa" />。そして[[1991年]]の[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]『[[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]]』の[[北条高時]]役を演じたことで役者としての決定的評価を得ることになる。後年、大河ドラマでは『[[元禄繚乱]]』(1999年)で[[英一蝶]]役を演じた。『[[軍師官兵衛]]』(2014年)では[[小寺政職]]役を演じたが、『[[仁義なき戦い]]』における[[金子信雄]]のイメージというオファー<ref>{{Cite web |url=http://mantan-web.jp/2013/05/11/20130510dog00m200062000c.html |title=片岡鶴太郎:5度目大河は「金子信雄で」と意気込み |publisher=[[まんたんブロード|MANTANWEB]] |date=2013-05-11 |accessdate=2016-09-04}}</ref> があったことから、芸人色の濃い演技となっている。
 
[[1988年]]、映画『[[異人たちとの夏]]』の監督・[[大林宣彦]]に[[江戸弁]]を気に入られ主人公の父親役に抜擢起用されると評判を呼び、多くの映画賞を受賞、活動の軸足を[[俳優]]に移した<ref name="週刊現代" /><ref name="city.arakawa" />。そして[[1991年]]の[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]『[[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]]』では[[北条高時]]役を演じたことで役者としての決定的評価を得ることになる。後年、大河ドラマでは『[[元禄繚乱]]』(1999年)で[[英一蝶]]役を演じされた。『[[軍師官兵衛]]』(2014年)では[[小寺政職]]役を演じたが、『[[仁義なき戦い]]』における[[金子信雄]]のイメージというオファー<ref>{{Cite web |url=http://mantan-web.jp/2013/05/11/20130510dog00m200062000c.html |title=片岡鶴太郎:5度目大河は「金子信雄で」と意気込み |publisher=[[まんたんブロード|MANTANWEB]] |date=2013-05-11 |accessdate=2016-09-04}}</ref> があったことから、芸人色の濃い演技となっている。
[[1990年代]]には[[横溝正史]]原作一連の推理ドラマに、主人公の探偵・[[金田一耕助]]役で毎年出演(計9本)し、[[石坂浩二]]や[[古谷一行]]らと並んで金田一役の代表的俳優の一角を占めることになった。以降も『[[家栽の人]]』では植物を愛し人間の本質を見抜く暖かみのある桑田判事役を、『[[ララバイ刑事]]』ではどこか虚無的な雰囲気のある刑事を演じるなど、コンスタントに活躍を見せている。
 
[[1990年代]]には[[横溝正史]]原作一連の推理ドラマに、主人公の探偵・[[金田一耕助]]役で毎年出演(計9本)し、[[石坂浩二]]や[[古谷一行]]らと並んで金田一役の代表的俳優の一角を占めることになった。以降も『[[家栽の人]]』では植物を愛し人間の本質を見抜く暖かみのある桑田判事役を、『[[ララバイ刑事]]』ではどこか虚無的な雰囲気のある刑事を演じるなど、コンスタントに活躍を見せている。
近年は2時間サスペンスドラマの主役として活躍する機会が多く、特に[[露口茂]]から引き継いだ『[[終着駅シリーズ]]』での牛尾正直刑事役は当たり役の1つ。同シリーズの2007年9月22日放送『〜悪の条件』では1985年にフジテレビ系列で放送された『[[夕やけニャンニャン]]』以来約22年ぶりに[[国生さゆり]]と共演した。『[[八丁堀の七人]]』では久々に[[山田邦子]]と共演し、『オレたちひょうきん族』のコントを{{読み仮名|髣髴|ほうふつ}}とさせるやりとりを見せた。
 
近年は2時間サスペンスドラマの主役として活躍出演する機会が多く、特に[[露口茂]]から引き継いだ『[[終着駅シリーズ]]』での牛尾正直刑事役は当たり役の1つ。同シリーズの2007年9月22日放送『〜悪の条件』では1985年にフジテレビ系列で放送された『[[夕やけニャンニャン]]』以来約22年ぶりに[[国生さゆり]]共演しなった。『[[八丁堀の七人]]』では久々に[[山田邦子]]と共演し、『オレたちひょうきん族』のコントを{{読み仮名|髣髴|ほうふつ}}とさせるやりとりを見せた。
だが以前、お笑い路線から離れ、ドラマ出演などでかっこいい路線へ転向しようとする鶴太郎を、かつてのお笑い仲間[[大平サブロー]]、[[大平シロー]]などに、自分ひとりだけ格好つけようとしていると激しく非難バッシングされトラウマを抱える。
 
飲み仲間だった[[志村けん]]の著書によると、鶴太郎は酒の席で「自分はものまねも中途半端だし、お笑いではたけしさんやさんまちゃんにはかなわない。コントに志村さんがいる。だから、俳優に行くしかない」と語ったとされている。後に「ひょうきん族は天才の集まり、芸人として限界を感じた。[[島田紳助]]さん、ビートたけしさん、さんまさん、山田邦子ちゃん。毎週ガチンコで勝負していると自分の力量がわかってくる。たけしさんとさんまさんがトークしている時入っていけなかった」とも語っていた<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[週刊文春]] |issue=2017年9月14日号 |publisher=文藝春秋 |page=135}}</ref>。
 
テレビで[[柳原可奈子]]を見た際、彼女の芸を気に入った鶴太郎は既に太田プロダクションにも入っている同僚であることを知らずに「スカウトして来い」と言ったことがある。
 
お笑い以外の多方面での活動が活発になりながらも、『[[爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル]]』や『[[爆笑レッドカーペット]]』に審査員として参加出演ており、時には上述お約束芸まねを披露するなどしており、完全にお笑いの第一線から身を引いたというわけではない。[[2008年]]には『[[FNS27時間テレビ (2008年)|FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!]]』にてではかつてのひょうきん族のキャラクターである「マイ爺さん」や「ピヨコ隊」をひさびさに演じた。
 
2000年、あるドラマに父親役出演した際、息子役の当時無名だった[[小栗旬]]とのケンカのシーンで、小栗が本気でのしかかり鶴太郎は腰骨が外れるというケガを負った。多忙だった鶴太郎はこのことをすっかり忘れていたが、10年後の2010年、小栗が鶴太郎の楽屋にあいさつに来てこのことを言うと鶴太郎は非常に驚いたという<ref>{{Cite news | url = http://japan.techinsight.jp/2010/04/turutarou-ogurisyun.html | title = 【エンタがビタミン♪】 10年前、片岡鶴太郎の腰の骨をはずした子役は、なんとあのイケメン俳優だった。 | publisher = [[Techinsight]] | date = 2010-04-09 | accessdate = 2016-05-24 }}</ref>。
 
2012年から、[[瞑想]]への関心をきっかけとして、毎朝起きると4時間[[ヨガ]]を実践し、5年目の2017年にはインド政府公認「プロフェッショナルヨガ検定・インストラクター」の全4段階中の難関のレベル1に合格した<ref>{{Cite web |url=http://www.oricon.co.jp/news/2092312/full/ |title=片岡鶴太郎、インド政府公認のヨガ検定合格&親善大使就任 体重も43キロに「Sサイズもブカブカ」 |publisher=ORICON NEWS |date= |accessdate=2017-07-07}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20170702/Myjitsu_025288.html |title=体重65キロが43キロ!片岡鶴太郎がヨガに目覚めた動機 |publisher=エキサイトニュース |date= |accessdate=2017-07-07}}</ref>。
145 ⟶ 147行目:
== 芸術家として ==
[[ファイル:Kataoka art museum kusatsu.JPG|thumb|草津町にある片岡鶴太郎美術館]]
[[タモリ]]に影響を受け、挿絵を描くことを始める。コメディアンとしての仕事から距離を置くにつれ、1989年にドラマ『志功の青春記 おらあゴッホだ』で若き頃の[[棟方志功]]を演じたことをきっかけに、[[水墨画]]を描くことや陶芸など美術方面へ傾倒していく。[[岡本太郎]]と[[バラエティ番組]]『[[鶴太郎のテレもんじゃ]]』で共演したことから知り合い、岡本によってその才能を評価され自信を持ったとされる。
 
[[群馬県]][[吾妻郡]][[草津町]]、[[福島県]][[福島市]]に美術館、[[石川県]][[加賀市]]、[[佐賀県]][[伊万里市]]に工藝館がある。
163 ⟶ 165行目:
[[2015年]]3月、書家として第10回[[手島右卿]]賞を受賞した(作品「夜」)<ref>{{Cite news |title=片岡鶴太郎、書道の手島右卿賞「勢いと独特のクオリティー」 |newspaper=Sponichi Annex |date=2015-03-01 |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/03/01/kiji/K20150301009895470.html |accessdate=2016-09-04}}</ref>。
 
== 影響 ==
== 松村邦洋との出会い ==
鶴太郎は、* [[1988年]]の「[[FNSスーパースペシャルテレビ夢列島|テレビ夢列島'88]]」の中継で福岡にある[[テレビ西日本]](TNC)を訪れた際に、そこで[[アルバイト]]をしていた肥満体型当時大学生で素人も青年とまね番組にも会い、演経験があった[[松村邦洋]]に「君、[[ビートたけし|たけしさん]]のものまねをしているよね。いいよ〜、面白いよ〜」と声をかけた。その人物は、当時大学生の[[松村邦洋]]だった。この出会いで、松村は大学を中退して上京し太田プロからデビューすることとなった。
* 弟子にタレントの[[春一番 (お笑い芸人)|春一番]]がいる。
 
== 読字障害 ==