「第二次世界大戦期アイルランドの局外中立」の版間の差分

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== 戦前の対英関係 ==
[[1939年]]当時のアイルランドは名目上[[イギリス帝国|大英帝国]]の[[自治領]]にして[[イギリス連邦]]の一員であった。アイルランドは[[アイルランド独立戦争]]を経て[[アイルランド自由国|イギリスから事実上の独立]]を果たしていたし、[[1921年]]に結ばれた[[英愛条約]]はアイルランドを「主権、独立、民主主義国家」であると宣言していた。[[1937年]]には[[国民投票]]で[[アイルランド憲法|新たな憲法]]が制定された。[[第一次世界大戦]]の時とは異なり、[[1931年]]の[[ウェストミンスター憲章]]の制定によって、{{仮リンク|第二次世界大戦下イギリスの軍事史|label=イギリスが戦争に突入|en|Military history of the United Kingdom during World War II}}してもアイルランドを含む自治領が自動的に参戦する義務はなくなっていた。 アイルランドとイギリスの関係は長年にわたる緊張が続いており、例えば[[1938年]]まで両国は{{仮リンク|英愛貿易戦争|en|Anglo-Irish trade war}}を行っていた<ref>{{cite book|last=Mansergh|first=Nicholas| author-link = Nicholas Mansergh |title=Survey of British Commonwealth affairs: problems of wartime co-operation and post-war change 1939–1952|publisher=Routledge|year=1968|page=59|isbn= 978-0-7146-1496-0|url=https://books.google.com/books?id=4reb6_TOYjsC&pg=PA59}}</ref>。
 
それでも、アイルランドが{{仮リンク|1936年執行権 (対外関係) 法|label=イギリス国王との微妙な関係を断絶する事はなく|en|Executive Authority (External Relations) Act 1936}}、名目上の関係が最終的に終了したのは[[1948年]]制定の[[アイルランド共和国法]]が施行されてからだった。憲法改正後にアイルランド国家の代表者がイギリス連邦会議に出席したり、関係する業務に参加したりする事はなくなったが、イギリスの{{仮リンク|1949年アイルランド法|en|Ireland Act 1949}}がアイルランドの共和国宣言を受け入れ、正式にイギリス連邦加盟の終了を認めるまで正式な加盟国であり続けた。
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{{quotation|...アイルランド人は、当時のイギリスに対し途方もない反感を抱いていました...それは恐ろしい事だったと言うのは控えめな表現でしょう。}}
 
この頃アイルランドの社会・経済状況は厳しい物で、賃金は停滞したが物価は上昇した。燃料や食料品の不足も深刻であった一方で、国境を越えた密輸や[[闇市|闇市場]]が一種のブームになった<ref>Bryce Evans, Ireland during the Second World War: Farewell to Plato's Cave (Manchester University Press, 2014)</ref>。
 
[[ダグラス・ハイド]]大統領は[[アイルランド聖公会|アイルランド国教会]]に属していたが、その信者のほとんどは元ユニオニストで親英派であった。彼が[[1943年]]に{{仮リンク|プロテスタントの優位性|label=プロテスタント信者|en|Protestant Ascendancy}}が大勢出席したある結婚式に招待された際、彼の秘書は花嫁から「イギリス王に乾杯したり、[[女王陛下万歳|イギリス国歌]]を歌うなどの好戦的な示威を行わない」という保証を受けていた<ref>{{cite news |last1=Horgan |first1=John |title=An Irishman's Diary |url=https://www.irishtimes.com/opinion/an-irishman-s-diary-1.136956 |access-date=20 February 2019 |work=The Irish Times |date=21 February 1998 |language=en}}</ref>。
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アイルランド政府はヨーロッパでの戦争が[[アイルランド内戦]]の古傷を刺激する結果になる事を憂慮していた。アイルランドには親[[ファシズム|ファシスト]]と反ファシスト運動が存在し、[[アイルランド共和軍|IRA]]は独自の課題を追求し続けていた。
 
元IRAの司令官であり、[[統一アイルランド党|フィナ・ゲール]]の創立者でもある{{仮リンク|エオイン・オダフィー|en|Eoin O'Duffy}}将軍は[[1932年]]から翌年にかけてファシスト組織である{{仮リンク|ブルーシャツ|en|Blueshirts}}の指導者だった<ref>[http://findarticles.com/p/articles/mi_qa3724/is_200305/ai_n9263899 IRISH SECRETS: GERMAN ESPIONAGE IN WARTIME IRELAND, 1939–1945] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090930085129/http://findarticles.com/p/articles/mi_qa3724/is_200305/ai_n9263899/ |date=30 September 2009 }}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.ucc.ie/icms/irishmigrationpolicy/Judaism%20The%20Jews%20of%20Ireland.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050829221740/http://www.ucc.ie/icms/irishmigrationpolicy/Judaism%20The%20Jews%20of%20Ireland.htm|url-status=dead|title=The Jews of Ireland.|archivedate=29 August 2005|accessdate=2021-02-21}}</ref>。第二次大戦期に[[アイルランドの首相]]を務めた[[エイモン・デ・ヴァレラ]]は{{仮リンク|アイルランドのユダヤ人の歴史|label=アイルランドのユダヤ人|en|History of the Jews in Ireland}}を一貫して支援してきた功績が認められ、それを記念して[[イスラエル]]に{{仮リンク|エイモン・デ・ヴァレラの森|label=彼の名前が付けられた森|en|Éamon de Valera Forest}}が存在する<ref>{{cite web|url=https://www.questia.com/magazine/1G1-64507455/the-jews-of-ireland|title=The Jews of Ireland|last=Tracy|first=Robert|year=1999|publisher=bNet.com|pages=7|access-date=30 November 2014}}</ref>。 [[1936年]]に勃発した[[スペイン内戦]]で敵対する双方の陣営で2つのアイルランド人部隊が戦っていた。オダフィーの{{仮リンク|アイルランド旅団 (スペイン内戦)|label=アイルランド人旅団|en|Irish Brigade (Spanish Civil War)}}は[[フランシスコ・フランコ|フランコ]]率いる反乱軍に加勢し、[[国際旅団]]の{{仮リンク|スペイン内戦におけるアイルランド社会主義者義勇兵|label=アイルランド人部隊|en|Irish socialist volunteers in the Spanish Civil War}}は[[スペイン第二共和政|共和国側]]で戦ったが、どちらも政府の支援は受けていなかった。
 
開戦前の半年間には、新指導者となった{{仮リンク|ショーン・ラッセル|en|Seán Russell}}のもとでアイルランド共和国軍の活動が活発化し、{{仮リンク|Sプラン|label=イギリスでのテロ活動|en|S-Plan}}を繰り広げた。[[1936年]]までIRAの活動を容認していたデ・ヴァレラは、[[1939年]]に{{仮リンク|対国家攻撃法 (1939年-1998年)|label=対国家攻撃法|en|Offences against the State Acts 1939–1998}}を制定して対応した。9月に世界大戦が勃発すると、破壊活動は国家の安全を脅かす物と見なされるようになった。アイルランドの港を空軍と海軍のために確保する事を求めるイギリスが、アイルランドへの侵攻や港湾の強制的な接収の口実としてテロ攻撃を持ち出す可能性や、ヨーロッパの同盟国に支援を求めるアイルランド共和主義の伝統に沿ったIRAがドイツの情報機関と連携し、それによってアイルランドの中立政策が危うくなる可能性が指摘された。{{要出典|date=2021年2月}}
 
ラッセルは[[1940年]]5月にIRAの武器と支援を得るために[[ベルリン]]を訪れ、危惧は現実の物になった。彼はドイツ軍から訓練を受けたが、{{仮リンク|ドーブ作戦 (アイルランド)|label=ドーブ作戦|en|Operation Dove (Ireland)}}の一環としてアイルランドに戻る間に潜水艦で死亡した<ref>Seán Cronin: Frank Ryan, The Search for the Republic, Repsol, 1980. pp. 188–190</ref>。少数で準備が不十分なドイツの工作員がアイルランドに派遣されたが、到着した工作員はすぐに{{仮リンク|軍事情報局 (アイルランド)|label=軍事情報局(G2)|en|Directorate of Military Intelligence (Ireland)}}によって捕らえられた。活動的な共和主義者は{{仮リンク|カーラ・キャンプ|en|Curragh Camp}}に拘留されるか、懲役刑を言い渡された。新たに制定された反逆罪で6人の男が絞首刑となり、さらに3人が[[ハンガーストライキ]]で死亡した<ref>Collins, M.E., 1993, Ireland 1868-1966, Dublin: the Educational Company of Ireland. p. 373</ref>。 次第にドイツはIRAの能力を過大評価していた事に気づくようになった。 [[1943年]]までにIRAは壊滅状態になっていた。[[配給]]や経済的な圧力にもかかわらず、アイルランドの中立政策は支持を受け続けた<ref>The Earl of Longford and Thomas P. O'Neill: Éamon de Valera. Gill and MacMillan, Dublin, 1970. pp. 347–355</ref>。
 
=== 港湾と貿易 ===
 
{{main|{{仮リンク|第二次世界大戦下のアイルランドの商船|en|Irish Mercantile Marine during World War II}}}}
戦争が始まった時、アイルランドはかつてない孤立状態に置かれていた<ref>{{cite book|last=Ferriter|first=Diarmaid|title=What If? Alternative Views of Twentieth-Century Ireland.|publisher=Gill & Macmillan|year=2006|page=100|isbn=978-0-7171-3990-3|quote=(Quoting Garvin) Irish isolationism was a very powerful cultural sentiment at that time|author-link=Diarmaid Ferriter}}</ref>。[[アイルランド独立戦争|独立]]以来、海運は放置状態のままで<ref>McIvor, page 16</ref><ref name=tribunal>{{cite book|last=Gilligan|first=H.A.|title=A History of the Port of Dublin|publisher=Gill and Macmillan|location=Dublin|year=1988|page=166|isbn=0-7171-1578-X}}</ref>、アイルランドがそれまで頼みにしていた外国船の利用は減っていた<ref>Spong, page 11. "in the period April 1941 and June 1942, only seven such ships visited the country"</ref>。[[中立|中立国]]であるアメリカの船舶は「戦域」に入る事を拒んだ<ref name=zone>{{cite book|last=Burne|first=Lester H|title=Chronological History of U.S. Foreign Relations: 1932–1988|editor=Richard Dean Burns|publisher=Routledge|year=2003|volume=2|page=537|isbn=978-0-415-93916-4}}</ref>。開戦時にはアイルランドは56隻の船を擁し、戦争中に15隻が購入またはリースされ、20隻の船を喪失した。[[エイモン・デ・ヴァレラ]][[アイルランドの首相|首相]]は[[1940年]]の[[聖パトリックの祝日]]に行った演説の中で嘆いた。
 
{{quotation|交戦国の活動と船舶不足が原因で、これほど効果的に封鎖された国はありませんでした。そのほとんどが沈没し、通常の供給源とのすべてのつながりが事実上断たれました{{要出典|date=2021年2月}}。}}
 
少数のアイルランド商船は必要不可欠な海外貿易を続け、この時代はアイルランド人船員たちから「ロングウォッチ」と呼ばれていた。彼らは非武装で通常は[[アイルランドの国旗|アイルランドの三色旗]]を掲げて単独航海していた。彼らは明るい照明をつけたり、[[船体|側面]]や[[甲板 (船)|甲板]]に大きな文字で国名であるエールと三色旗を描いたりして、自分たちが[[中立|中立国]]の船舶である事を認識させようとしたが<ref>Fisk, page 273, "Up to four huge tricolours were painted on the sides of each ship together with the word EIRE in letters twenty feet high"</ref>、戦争に参加していない船員の2割が死亡した。[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の[[護送船団]]は生存者を救助するため、しばしば停止する事ができなかった。アイルランド船は常に[[SOS]]の通報に応じ、救助のために船を停止させた。アイルランド船員は双方の船員を救助したが双方から攻撃を受け、主として[[枢軸国]]から攻撃を受けた。商船により重要な輸入品が到着し、主にイギリス向けの食料品の輸出が行われ、521人の命が救助された<ref>Fisk, page 276</ref>。
 
多くのイギリス船はアイルランドの造船所で修理された<ref>{{cite book|last=Sweeney|first=Pat|title=Liffey Ships|year=2010|publisher=Mercier|isbn=978-1-85635-685-5|page=227}}</ref>。
 
たいびたび[[噂]]になっていたにもかかわらず、[[Uボート]]がアイルランドを給油基地として使用したことは一度もなかった<ref>{{Cite web|url=http://greyfalcon.us/Ireland.htm|title=Ireland|website=greyfalcon.us|accessdate=2021-02-23}}</ref>。この噂の起源は、[[1939年]]にUボートの司令官{{仮リンク|ヴェルナー・ロット|en|Werner Lott}}が金属鉱石を積んでイギリスに向かっていたギリシャの貨物船を沈めた後、{{仮リンク|U-96 (潜水艦・2代)|label=ドイツの潜水艦U-35|en|German submarine U-35 (1936)}}によって救出された28人のギリシャ船員をアイルランドの海岸に置き去りにした件に由来する可能性が高い<ref name="u-35.com">{{Cite web|url=http://www.u-35.com/sources/Kerryman1999.htm|title=Kerryman 1999|website=www.u-35.com|accessdate=2021-02-23}}</ref>。この事件はアメリカの人気雑誌「[[ライフ (雑誌)|ライフ]]」の[[1939年]][[10月16日]]号の表紙に掲載された。このニュースは広く報道され、捕虜となったギリシャ人が降ろされる所を目撃した地元の人々は、不法侵入したUボートは沿岸防衛機が向けられる前に立ち去り、再び潜航した事を指摘した<ref name="u-35.com"/><ref>{{cite journal|date=16 October 1939|title=War on U-Boats|journal=Life Magazine|publisher=Time-Life|pages=Cover and p. 79|url=https://books.google.com/books?id=RUIEAAAAMBAJ&q=%22life+magazine%22}}</ref>。
 
== 脚注 ==