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== 生涯 ==
=== 死 ===
大正2年4月13日、函館図書館で啄木の一周忌の追悼会が開かれた。来会者20余名の席上で、啄木と面識のない斎藤咀華が写真を参考にし、宮崎郁雨ら友人たちの意見も取り入れて、描いた油絵が披露されている<ref name="山下157">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.157</ref>。追悼会の数日後、「苜蓿社」時代の友人岩崎白鯨は、この絵を一目節子に見せようと、岡田健蔵と連れだって病院を訪ねた<ref name="山下157" /><ref>[[#堀合(1974)|堀合(1974)]] p.214</ref>。岡田は絵を前にして、当日の様子について詳しく話し、これを機会に啄木会として「啄木文庫」を創設し、啄木の関係資料の収集や保存をしていくことを約束している。節子は啄木が残した日記、書簡および遺稿など一切を「啄木文庫」に託すことを言い残したと伝えられる<ref>[[#坂本(1998)|坂本(1998)]] p.464</ref>。病室の節子は痩せ衰え、正視できないほどだったが、咳き込みながら食い入るようにその絵を見つめていたという。岩崎白鯨は手記にこう書き記している<ref>[[#堀合(1974)|堀合(1974)]] pp.214-215</ref>。
{{Quotation|その時は見て貰ったら直ぐ持って帰る積りで行ったのだが節子さんが咳入り〱乍ら一心に眺めてゐるものを、とても持って帰る訳に行かなかったそれで、こっそり岡田君に耳打して、飽きたら返して貰う事にして画を置いて二人ハ帰ったそれは僕にしてハ永の別れであった。(中略)外へ出てから岡田君に、画を持って帰るに忍びなかったと云ったら、同君も同感だと云ってうつむいた。岡田君もあれを最後に、節子さんに逢はなかったことと思ふ。|岩崎白鯨}}
節子は啄木の肖像画とともに、残りの二週間ほどの命を生きた<ref name="山下157" />。