「ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)」の版間の差分

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=== スペイン渡航 ===
ジェームズ1世は、ヨーロッパ大陸で発生した[[三十年戦争]]への参戦に消極的だったが、スペインに占領された[[プファルツ選帝侯領|プファルツ]]の原状回復には前向きだった。しかし1621年に召集された議会はその費用を認めなかったので実施は不可能だった。そんな中[[プリンス・オブ・ウェールズ|皇太子]][[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ]](後のチャールズ1世)は自分とスペイン王女[[マリア・アナ・フォンアウストリアシュパーニエン|マリア・アナ]]の婚約話を進めることで、持参金としてプファルツ回復をスペイン王[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]に認めさせることを考えた。バッキンガム侯も次期国王への影響力を確保しようという意図からチャールズのこの構想を支持した<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.160-167</ref>。
 
[[1623年]]2月、チャールズ皇太子とバッキンガム侯は国王に相談することもなく独断でスペイン・[[マドリード]]へ渡った<ref name="今井(1990)167">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.167</ref>。2人は半年間マドリードに滞在してスペインと交渉にあたったが、外交経験が無い2人は相手の交渉引き延ばし工作に乗せられ、フェリペ3世の息子でマリアの兄[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ4世]]はイングランドと結ぶ気はなく、側近の[[オリバーレス伯爵|オリバーレス伯公爵]][[ガスパール・デ・グスマン]]からはチャールズ皇太子のカトリック改宗とイングランドの反カトリック法撤廃を要求されたため、交渉は頓挫した<ref name="世界(1981,7)344" /><ref>[[#塚田(2001)|塚田(2001)]] p.67-68</ref>。プファルツ回復を持参金とする確約も得られず<ref name="今井(1990)168">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.168</ref>、2人は何の成果の無いまま9月に帰国の途に就いた。しかしこのスペイン訪問でバッキンガム公はスペインの狙いがイングランドとの交渉を長引かせてイングランドを三十年戦争の枠外に置いておくことだと見抜いた。そのためこれ以降のバッキンガム公は反スペイン派の筆頭に転じた<ref name="今井(1990)163" /><ref>[[#塚田(2001)|塚田(2001)]] p.68</ref>。
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