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詩集刊行前に賢治が先駆型を雑誌や新聞に発表していた作品が3編存在し、いずれも詩集と一部異同がある<ref name="honbun1">入沢康夫「本文について」『宮沢賢治全集1』、p.700</ref>。
 
各作品の下書稿の現存は僅かであるものの、詩集印刷のために活版所で用いられた「詩集印刷用原稿」の大半が現存しており<ref>この原稿は賢治の没後、行方不明となっていたが、[[1945年]]8月の[[花巻空襲]]の後、くすぶっていた実家の土蔵から発見された([[宮沢清六]]「燻蒸された原稿」『兄のトランク』筑摩書房、1987年)。「序」など冒頭7の推定11枚は逸失。</ref>、賢治は刊行への最終段階に至るまで作品の推敲や配置などに意を砕いたことが、原稿に残された書き込みなどから窺える<ref>入沢康夫「本文について」『宮沢賢治全集1』、pp.701 - 702</ref><ref>入沢康夫「解説」『宮沢賢治全集1』、pp.724 - 727</ref>。また、刊行後にも数冊の詩集本文に書き直しの書き込みを行っており、そのうち宮沢家所蔵本をはじめ3冊が現存している<ref name="honbun1"/>。これらの内容の異同は、『【新】校本宮澤賢治全集 第二巻』([[筑摩書房]]刊)で確認することができる。
 
詩の多くは「心象スケッチ」と賢治自身が名付けた手法によって書かれ、時間の経過に伴う内面の変容、さらにその内面を外から見る別の視点が取り込まれている。この「心象スケッチ」の手法については、[[ウィリアム・ジェームズ]]が唱えた「[[意識の流れ]]」との関連が指摘されている(賢治は『春と修羅 第二集』の詩「林学生」にジェームズの名を書き残しており、著書を読んだ可能性が研究者から言及されている<ref>鈴木健司『宮沢賢治 幻想空間の構造』蒼丘書林、1994年、pp.35 - 46</ref>)。