「高村山荘」の版間の差分

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== 概要 ==
高村光太郎([[1883年]] - [[1956年]])は、[[1945年]]5月に東京の自宅兼アトリエを[[空襲]]で失い、[[宮沢賢治]]の父の宮沢政次郎および実弟の[[宮沢清六]]を頼って[[花巻|花巻]]の宮沢家に疎開した。しかし、宮沢家も同年8月に空襲により焼失したため、同年秋から小屋を設けて住むこととした。それがこの高村山荘である。以来、[[十和田湖]]畔の「乙女の像」制作のため当地を離れる[[1952年]]までの晩年の7年間を独りで過ごした。この生活には戦争中に戦意高揚のために多くの詩を作ったことへの贖罪の意味があったとされる。面積は土間を含めても15畳程度と小さく、柱が細くて造作も粗末。この旧居を保存するために、二重に蓑屋で囲われている。蓑屋の入口には、[[草野心平]]の書「無得殿」が掲げてある。
 
内部は、障子に書かれた日時計、厠の「光」という文字の明かり取り、般若心経の文字や光太郎の自画像などに至るまで、光太郎が生活した当時のまま保存されている。