「ヨランド・ド・ドルー (スコットランド王妃)」の版間の差分

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| 在位 = [[1285年]] - [[1286年]][[3月19日]]
| 別称号 = モンフォール女伯<br>ブルターニュ公妃(1294年 - 1312年)
| 全名 =
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| 生地 =
| 死亡日 = [[1330年]][[8月2日]]
| 没地 = {{FRA1211}}、[[ポール・ロワイヤル修道院]]
| 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 結婚 = [[1285年]][[10月14日]] [[ジェドバラ]]修道院<br>[[1294年]]
| 配偶者1 = [[スコットランド王国|スコットランド]]王[[アレグザンダー3世 (スコットランド王)|アレグザンダー3世]]
| 配偶者2 = [[ブルターニュ公]][[アルテュール2世 (ブルターニュ公)|アルテュール2世]]
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| 父親 = ドルー伯[[ロベール4世 (ドルー伯)|ロベール4世]]
| 母親 = モンフォール女伯ベアトリス
| 家名 = [[ドルー家]]
| 宗教 =
| サイン =
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1285年10月14日、ジェドバラにおいてスコットランド王[[アレグザンダー3世 (スコットランド王)|アレグザンダー3世]]と結婚した。アレグザンダーは1275年に先妻[[マーガレット・オブ・イングランド]]([[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]の娘)と死別した後、1281年から1284年までの間に2男1女の子供全員に先立たれていた。1286年、再婚から5ヶ月後にアレグザンダーは落馬により急逝し、ヨランドとは子供をもうけずに終わった。スコットランド貴族はアレグザンダーと先妻の娘[[マーガレット・オブ・スコットランド (ノルウェー王妃)|マーガレット]]が[[ノルウェー]]王[[エイリーク2世 (ノルウェー王)|エイリーク2世]]との間にもうけた娘で3歳の[[マーガレット (スコットランド女王)|マーガレット]]を、ノルウェーの父親の許にとどめたまま女王に立てた。
 
12921294年、ヨランドは[[ドルー家]]の同族(ただし両者の4代前の先祖が共通という遠縁)で、マーガレット・オブ・イングランドの甥でもあるブルターニュ公[[アルテュール2世 (ブルターニュ公)|アルテュール2世]]と再婚し、2人は1男5女をもうけた。アルテュールには先妻マリー・ド・リモージュ(ヨランドの同名の大伯母と[[ブルゴーニュ公]][[ユーグ4世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ4世]]の外孫でドルー伯家の血を引き、ヨランドの又従姉妹にあたる)との間にすでに3男があり、次男の娘[[ジャンヌ・ド・パンティエーヴル]]とヨランドとの間にもうけた[[ジャン・ド・モンフォール]]との間で後に相続争いが起こり、[[ブルターニュ継承戦争]]へと発展する。
 
== 参考文献 ==