「恭帝 (西魏)」の版間の差分

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556年10月に宇文泰が没すると、12月に[[宇文護]]に迫られて、恭帝は周公[[孝閔帝|宇文覚]]に帝位を[[禅譲]]する詔を発した。ここに西魏は滅亡した。拓跋廓は宮中を出て大司馬府に移った。
 
[[557年]]1月、宇文覚が天王(皇帝)の位について[[北周]]を建てると、拓跋廓は宋公に封ぜられたが、間もなく殺害された。
 
恭帝の在位中には元号が建てられなかったため、後世の史書では554年・555年・556年を「西魏恭帝元年・2年・3年」と呼んでいる。
{{拓跋系図}}
 
{{北魏の皇帝|[[西魏]]|554年 - 556年|第3代}}