「ホセ・リサール」の版間の差分

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=== 最期 ===
[[ファイル:ホセ・リサール銃殺刑シーン.jpg|サムネイル|反乱、扇動、違法結社の無実の罪で死刑を宣告され1896年12月30日にバグンバヤン広場(現在のリサール公園)で銃殺された。]]
[[1896年]]7月に流刑を終えた後、かねてから伝えていた[[軍医]]志望の旨が総督の[[ラモン・ブランコ]]に許可されたため、リサールは[[スペイン海軍]]の[[巡洋艦]]「カスティリア号」に乗り込み、任地のスペイン領[[キューバ]]へと旅立った<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:68-69)]]</ref>。しかし、船が[[地中海]]に入ったところで[[秘密結社]][[カティプナン]]が独立闘争([[フィリピン独立革命#1896年革命|1896年革命]])を開始すると、上陸地のバルセロナで以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕された<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:70)]]</ref>。スペインからフィリピンの首都マニラに送致された後、[[軍法会議]]にかけられ、同年[[12月26日]]に[[銃殺刑]]が宣告された<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:71)]]</ref>。処刑の前の晩に妹に手渡した遺言代わりの[[辞世]]の詩は、後に『ミ・ウルティモ・アディオス(''Mi Ultimo Adios'',『我が最後の別れ』の意)』と名づけられ、彼の祖国への熱い思いを伝えるものとなっている。同年[[12月30日]]、リサールを一目見ようと集まったフィリピン民衆が見守る中、35歳にしてマニラで銃殺された<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:84-86)]]</ref>。