「大蔵麻呂」の版間の差分

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大嘗祭による昇進のことなどを附記。
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[[聖武天皇|聖武朝]]の天平8年([[736年]])[[遣新羅使|遣新羅少判官]]に任ぜられて、大使・[[阿倍継麻呂]]に従って[[新羅]]に渡る。しかし、大使の阿倍継麻呂は[[対馬]]で病死、副使の[[大伴三中]]は[[疫病]]に感染して入京できなかったため、大判官・[[壬生宇太麻呂]]とともに麻呂が入京し<ref>『[[続日本紀]]』天平9年正月27日条</ref>、帰朝報告を行う。ここで、新羅がこれまでの[[礼儀]]を無視し、使節の使命を受け入れなかったことを[[奏上]]した。これに基づいて[[官人]]45名が[[内裏]]に召集され、対策のための意見の陳述が行われた<ref>『[[続日本紀]]』天平9年2月15日条</ref>。
 
[[孝謙天皇|孝謙朝]]の[[天平勝宝]]6年([[754年]])[[外位|外]][[従五位|従五位下]]に、[[淳仁天皇|淳仁朝]]の[[天平宝字]]2年([[758年]])には[[大嘗祭]]の悠紀の国司を務めたということで、[[内位]]の従五位下に叙せられる(この時の主基の国司の担当者は[[田辺広浜|上毛野広浜]])。この間の天平勝宝8歳([[756年]])[[聖武天皇|聖武上皇]][[崩御]]に際しては造方相司を、天平宝字4年([[760年]])[[光明皇后]]崩御に際しては養民司を務めた。また、淳仁朝では[[丹波国#国司|丹波守]]・[[玄蕃寮|玄蕃頭]]を務めている。
 
[[天平神護]]元年([[765年]])[[孝謙天皇#重祚:称徳天皇としての治世|称徳天皇]]の[[紀伊国]][[行幸]]に騎兵副将軍として随行し、帰還後に従五位上に叙せられている。[[光孝天皇|光孝朝]]の[[宝亀]]3年([[772年]])[[正五位|正五位下]]に至る。
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*[[天平勝宝]]6年([[754年]]) 正月16日:[[外位|外]][[従五位|従五位下]]
*天平勝宝8歳([[756年]]) 5月3日:造方相司([[聖武天皇|聖武上皇]][[崩御]])
*[[天平宝字]]2年([[758年]])8月4日:[[丹波国#国司|丹波守]]<ref>『大日本古文書』巻十五 - 130頁</ref> 11月27日:従五位下([[内位]])
*時期不詳:[[丹波国#国司|丹波守]]
*[[天平宝字]]2年([[758年]]) 11月27日:従五位下([[内位]])
*天平宝字4年([[760年]]) 6月7日:養民司([[光明皇后]]崩御)
*天平宝字5年([[761年]])頃:見丹波守<ref>『大日本古文書(編年文書)』15巻131頁</ref>
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== 参考文献 ==
* 『続日本紀』2 新日本古典文学大系13 [[岩波書店]]、1990年
* 『続日本紀』3 新日本古典文学大系14 岩波書店、1992年
* 『続日本紀』4 新日本古典文学大系15 岩波書店、1995年
*[[宇治谷孟]]『続日本紀 (上)』[[講談社]]〈[[講談社学術文庫]]〉、1992年
*宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年