「クーム・アビー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
en:Coombe Abbey (17:32, 1 November 2020‎‎ UTC) から、「Early history as an abbey」節を翻訳
en:Coombe Abbey (17:32, 1 November 2020‎‎ UTC) から、「Conversion to a private residence」節を翻訳
11行目:
 
[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]が命じた{{仮リンク|修道院の解体|en|Dissolution of the Monasteries}}によって、修道士たちは、[[1539年]]に修道院を失った。以降の何世紀にもわたって、建物には数多くの増改築が加えられた。しかし、[[クロイスター|クロイスター(回廊)]]の一部はそのまま残され、現在の建物にも伝えられている<ref>Warwickshire County Council website. [http://timetrail.warwickshire.gov.uk/detail.aspx?monuid=WA3739 Online reference]</ref>。
 
== 邸宅への改装 ==
[[File:Nicholas Hilliard 019.jpg|thumb|200px|エリザベス王女]]
修道院が[[1539年]]に接収された後、40年ほどの間にこの建物は数多くの所有者を経ることとなった。[[1581年]]、この建物は[[サー]]・{{仮リンク|ジョン・ハリントン (初代エクストンのハリントン男爵)|label=ジョン・ハリントン・オブ・エクストン|en|John Harington, 1st Baron Harington of Exton}}が所有するところとなり、彼はこの修道院を、イングランド有数の邸宅のひとつに改装した<ref>Parks and Gardens website. [http://www.parksandgardens.org/places-and-people/site/894?preview=1 Online reference]</ref>。
 
ハリントンは、[[スコットランド]]を出自としており、[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート・ブルース]]の血を引いていた。[[スコットランド王国|スコットランド王]][[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]が[[イングランド王国|イングランド王]]となったとき、ハリントンは、その出自を使って王にとりいった。[[1603年]]、ジェームズ王は娘である[[エリザベス・ステュアート|エリザベス王女]]をコーンブ・アビーに送って、住まわせた。王は勅許状を発し、「我々は、我らの娘であるレディ・エリザベスの養育と教育をハリントン卿夫妻に委ねることがふさわしいと考えるに至った (we have thought fit to commit the keeping and education of the Lady Elizabeth our daughter to Lord Harington and the Lady his wife)」と宣言した。以降、5年間にわたってエリザベスはアビーに住んだ。彼女の教師兼[[チャプレン]]となったのは、コヴェントリーのフリー・スクール (the Free School at Coventry) の校長だったマスター・ジョン・トヴィー (Master John Tovey) であった。エリザベスのお気に入りとなった幼少期の遊び相手は、ハリントン卿の姪{{仮リンク|アン・サットン|label=アン・ダドリー|en|Anne (Dudley) Sutton}}であり、ふたりの交友はその後長く続いた<ref>Motkin, D. L. 1961 ''The Story of Coombe Abbey''. [http://www.coventry-walks.org.uk/coombe/ca-ch4.html Online reference]</ref>。
 
[[1604年]]、有名な[[火薬陰謀事件]]が明るみになった。これは、ジェームズ王をふたりの王子ともども亡き者として、エリザベスを女王に立てようという企てであった。さらにこの企ては、エリザベスを拉致し、彼女が幼いことを理由に[[カトリック]]の摂政を置いて国政に当たりながら、彼女にカトリックの教育を施し、将来はカトリック教徒と結婚させようとするものであった。彼女がコーンブ・アビーで無防備になるよう、カトリックの[[ジェントリー]]が、[[1605年]][[11月6日]]に、コーンブから数マイルのダンチャーチ (Dunchurch) という場所で狩猟の競技会を開くと称してハリントン卿を招いた。
 
陰謀者たちがコーンブへ向かう中、その日の朝いち早く蜂起の報を受け取ったハリントン卿は、エリザベスを[[コヴェントリー]]の城壁内にいた[[サー]]・{{仮リンク|トマス・ホルクロフト (政治家)|label=トマス・ホルクロフト|en|Thomas Holcroft (politician)}}の元へと送った。警護のため、市長とともに市民9人が騎乗の上で、市の武器庫から弓矢や[[パイク]]を持ち出し、任務にあたった。このため、陰謀者たちがコーンブへ到着したときには、エリザベスは既に脱出しており、自分たちの企てが露見したことを悟った彼らは逃亡した。彼らのほとんどは逃亡しきれず殺されたが、少数は捕縛されてロンドンに送られた上で、処刑された<ref>Motkin, D. L. 1961 ''The Story of Coombe Abbey''. [http://www.coventry-walks.org.uk/coombe/ca-ch4.html Online reference]</ref>。[[1613年]]、エリザベスは、[[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|後にボヘミア王となるフリードリヒ]]と結婚し、やがてボヘミア王妃となった。
 
ジョン・ハリントンは[[1613年]]に死去し、その後、建物の所有権は変更を重ね、[[1622年]]に至ってアビーは[[ロンドン市長 (シティ・オブ・ロンドン)|ロンドン市長]][[サー]]・{{仮リンク|ウィリアム・クレイヴン (ロンソン市長)|label=ウィリアム・クレイヴン|en|William Craven (Lord Mayor of London)}}の未亡人[[レディ(称号)|レディ]]・エリザベス・クレイヴン (Lady Elizabeth Craven) の所有するところとなり、彼女はこれを息子に遺産として残した。以降300年にわたって、この建物はクレイヴン家が継承することとなった<ref>Coombe Abbey Hotel website. [http://www.coombeabbey.com/our-history/ Online reference]</ref>。
 
== 脚注 ==