「水野晴郎」の版間の差分

著作『母の愛 そして映画あればこそ―夢と希望を追い続けたわが60年』において「世界の警察を取材するために海外へ渡るときは解説を何本かまとめ撮りしていた」と述べている。映画評論の仕事で多忙を極め、時間がなかったことから2本の映画を同時に見たこともあり、「話の内容分かりますか?」と尋ねられ「2本とも分かりませんでした」と答えている。
 
また、番組開始時はフィルム撮影だったためNGを出すとフィルムを廃棄して頭から撮り直しになるので「いつか上手くなって一発で決めよう」と意気込んでいたが、そうなる前の19761978年10月に「撮り直しの利くビデオ撮影に切り替わった」と当時を振り返っている。
 
1978年から[[日本アカデミー賞]]が開催されるが、同賞は水野が「映画の素晴らしさをさらに盛り上げる祭典」と発案し、[[松竹]]・[[東宝]]・[[東映]]のトップや[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[テレビプロデューサー|プロデューサー]]へ持ち掛けて準備を進めていたが、途中から[[電通]]が仕切ることになり、水野は会員として投票する立場となった<ref name = mizuno/>。